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北見国に花束を【コラムリレー第19回】

明治から昭和にかけて斜里で採集された古い植物標本を調べていると、産地としてしばしば北見國や北見囗、Prov. Kitamiという文字をみかけます。今はなきこの北見国(きたみのくに)という国名は松浦武四郎が命名したもので、利尻礼文から知床岬にかけて、つまり宗谷地方と網走地方にほぼ一致します。

武四郎は名前の由来を「國名之儀ニ付申上候書付」に、このオホーツク海に面した地域が北海岸と呼ばれ、晴れた日に樺太(北蝦夷)が見えるからと説明しています。もちろん古代の日高見国(ひたかみのくに)からも発想を得たでしょう。なんとも広大な北見国は、標本ラベルにそれしか書かれていないと「どこなの?」と苦しむ地名であり、苦しんできただけに親しみ深い地名でもあります。

来年、2019年はこの北見国命名150周年にあたります。北見国住人としてこの年を迎えるにあたり、この国名にちなみ命名された植物名を挙げることで祝いの花束としましょう。これからも、澄んだ空と穏やかな海が目に浮かぶこの国名どおりの「あずましい」土地でありますように。

キタミソウ

Limosella aquatica
1904(明治37)年、東京大学の矢部吉禎と遠藤吉三郎が発表した占守島の植物リスト中にこの和名がすでに使われています。笈田一子が2004年に厚真の産地について報告した際、北海道で採集された標本リストを作成していますが、最も古い標本は北海道大学総合博物館のもので1887(明治20)年8月、北見国網走、T. 石川とあり、和名はこの標本の産地にちなむと思われます。T. 石川は石川貞治(札幌農学校7期生)でしょう。

1904(明治37)年の出版物にすでにキタミソウの和名がみえる(矢部吉禎・遠藤吉三郎.1904.千島占守島ノ植物.植物学雑誌18: 194.)

シレトコスミレ

Viola kitamiana
1928(昭和3)年12月に東京大学の中井猛之進が新種として発表し、学名の種小名をkitamiana、つまり「北見国の」と命名しました。産地は「in monte Iwo peninsulae Shiretoko prov. Kitami」と書かれ、知床半島硫黄山の北見国側、つまり斜里であるとわかります。発表に使われた標本は北大総合博物館にあり、ラベルには同年7月20日に採集、採集者はA. Gublerとあります。アーノルド・グブラー(Arnold Gubler)はスイス人で北大予科のドイツ語教師です。

シレトコスミレ

知床硫黄山のシレトコスミレ、知床半島のほか択捉島にも分布する

キタミフクジュソウ

Adonis amurensis
1939(昭和14)年、東大の本田正次がフクジュソウの種内分類群として新変種A. amurensis var. puberulaを発表し、和名をキタミフクジュソウとしました。産地はTokoro, prov. Kitamiとあり、和名は北見国常呂にちなみます。発表に使われた標本は採集1936(昭和11)年、採集者H. Iwamotoは岩本秀信でしょう。岩本は北大の宮部金吾と舘脇操が1935(昭和10)年にマシケゲンゲを新種発表した際にも標本採集者として名前が挙がっています。

なお、フクジュソウはこの後に複数種に細分されました。1989年に西川恒彦は和名フクジュソウに対応する学名をA. ramosaとし、キタミフクジュソウこそが本来のA. amurensisであるとしました。そして細分とは逆に常呂町は2008年に北見市と合併し、北見市常呂となりました。もとは北見国に由来する和名が、一見すると北見市に由来するようにみえるのは歴史の不思議な巡り合わせです。

キタミフクジュソウ

キタミフクジュソウは花茎が途中で枝分かれしない

紙数が尽きました。キタミアズマガヤ、キタミスズ、キタミコザサ、キタミオトギリ、キタミクロオトギリ、キタミハタザオ、ホソバノキクバクワガタ、キタミアザミについては機会があれば50年後にでも。

斜里町立知床博物館 学芸員 内田 暁友(うちだ あきとも)

引用および参考文献