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開拓を見つめ続けたヤチボウズ【コラムリレー第14回】

釧根地方を特徴づける景観のひとつに、一面にヤチボウズが広がる風景があります。釧路方面行き(下り)の根室本線に乗っていると、浦幌町あたりから線路際にヤチボウズが現れ始め、直別駅を過ぎたキナシベツ湿原や、パシクル沼から古瀬駅にかけて、湿原やハンノキ林の下におびただしい数のヤチボウズが並ぶ姿が見られます。花咲線、釧網線沿いにも見事な場所があります。

写真1

釧路市武佐の森のヤチボウズ

ヤチボウズは漢字で書くと「谷地坊主」または「野地坊主」。谷地=湿地にある人の頭のような形もの、というところから呼ばれ始めたと考えられます。ヤチボウズの正体はカブスゲやヒラギシスゲなど叢生するスゲ類で、密集した根茎が上へ上へと成長することと、冬季の土壌凍結と雪融け時期の流水によってとっくりを逆さまにしたような、独特な形になります。

写真2

釧路市音別町尺別、野焼き後のヤチボウズ。枯れ残った前年までの葉が焼かれ、輪郭がよく分かります。

ヤチボウズは湿った土地の中で微高地を形成することから周辺よりもやや乾いた条件となり、内部にアリが巣を作ったり、キタサンショウウオの生息環境となったりします。また、ヤチボウズの上部に別の植物が生育しているのもよく見られます。

ヤチボウズの形はユーモラスで、キャラクター化されたり、建物などのモチーフとして使われたりもしています。「子どもの頃に谷地で遊んだ時、ヤチボウズを踏んで歩いていたら踏み外して落ちた」「昔、お花見の時にヤチボウズ原で宝探しゲームをした」というエピソードを聞くこともあり、釧路の人にとっては身近な存在のようです。

写真3

ヤチボウズが描かれた釧路湿原大橋の欄干

一方、ヤチボウズは入植者にとっては厄介な存在でした。釧路市桜田(湯波内)にある開拓記念碑(入植40周年を記念して1976年に建立)には次の様な文章とともに、独特の形をした「坊主切鍬」の絵が刻まれています。

釧路市桜田地区開拓記念碑

 

  膝を没する湿地 

  はてしなく続くやちぼうず

  言語を絶する艱難辛苦を乗り越え

  泥炭地開拓に精進

  (以下略)

 

この開拓記念碑建立時に発行された記念誌『湿原に挑む 釧路原野・暗渠排水の発祥』(1976年発行)に、桜田地域の開拓を支えた坊主切鍬と開拓の歴史について詳しく書かれています。

写真5

釧路市立博物館に展示している坊主切鍬と窓鍬

坊主切鍬はヤチボウズを切断除去するために改良されたもので、開拓者は「坊主鍬」と呼び、農業試験場では「桃型窓鍬」と呼ばれていたそうです。「窓鍬」の刃先を丸く、刃を薄くして鎌のような切れ味を持たせました。また、非常に大きく重くすることで、鍬自体の重さで固いヤチボウズを切断するようにしたそうです。坊主切鍬は灌木やササの根などを切断することも可能で、暗渠排水事業のための開墾においても大活躍しました。昭和30年頃までは釧路市内の農機具製作所で坊主切鍬が受注生産されていましたが、機械化によりやがて使われなくなりました。

現在見られるヤチボウズは、いつから同じ場所に存在しているのでしょうか。ヤチボウズの成長量は「釧路湿原」の名付け親、田中瑞穂の1975年の報告では、ランダムに指定した20個の株について、10年間で高さの増大はいずれも1cm以下にとどまっていたとされています。高さ50cmを超えるようなヤチボウズたちの大集団がある一方で、お皿を伏せたくらいの高さでこれから長い年月をかけてヤチボウズになるのであろうカブスゲを見ることもあります。ヤチボウズは世代交代しながら、釧根の人びとの暮らしを見つめ続けています。

(釧路市立博物館 学芸員 加藤ゆき恵)

 

引用・参考文献

田中瑞穂. 1975. 釧路湿原の植生, p107-160. 釧路湿原総合調査報告書. 釧路市立郷土博物館, 釧路.

曽根樫次. 1976. 『湿原に挑む 釧路原野・暗渠排水の発祥』. 丁丑農事実行組合開拓記念実行委員会, 釧路.