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内田千代松さんを追え! ある移住者の十勝定着【コラムリレー第15回】

本コラムでは、十勝の開拓史上まったく無名と言っていい一人の人物、内田千代松さんの活動に焦点をあてます。千代松さんの動向を追うことで、近代北海道における職業(仕事)の一事例を紹介し、そうした職業にある人々を史料から追求することの難しさを考えてみましょう。

静岡県出身の千代松さん。北海道に来て、はじめに現在の大樹町で働いたようです。十勝開拓のパイオニアである依田勉三の日記の明治23年8月7日条に「伊豆人千代松来る」、同年9月26日に「千代松朝去る」と現れます。仕事は井戸掘りなど土木作業が中心です。同郷の依田勉三を頼ったのかも知れません。

依田勉三日記『備忘』明治23年8月7日条

依田勉三日記『備忘』明治23年9月26日条

つぎに千代松さんが記録に表れるのは明治26、27年ころ。この時期の、帯広(オベリベリ)市街を描いた絵図に、「土木請負 内田千代松」と登場します。よく見ると、千代松さんは他3名と「ルームシェア」していたことがわかります。彼らはいずれも仕事の関係上家を空けることが多く、一人で小屋を掛けるよりも共同のものを作った方が効率が良いと考えたのでしょう。

白浜忠吉「明治廿六、七年オベリベリ集落見取絵」(帯広百年記念館所蔵、右上に千代松の家が見える)

明治29年、今度は現在の上士幌町糠平(ぬかびら)での活動が確認できます。当時糠平では、電信線用の電柱の切り出し工事が行われていました。その担当官の日誌がえりも町郷土資料館に所蔵されています(『電信工事日誌 第一号』)。これによると、千代松さんは9月18日から21日まで糠平にいたと書かれています。帯広から糠平へ荷物を運搬したものと考えられます。

明治30年、本別町勇足(ゆうたり)に農場が設けられ、徳島県から移民団が到来します。農場の管理人の東條儀三郎さんは、移住民の荷物を運ばなくてはなりません。本別町歴史民俗資料館にある『東條家文書』には、荷物の輸送に千代松さんが携わったことがわかる史料が残されています。東條儀三郎さんと内田千代松さんとで「約定書」を取り交わし、約500個の荷物を池田町利別(としべつ)から勇足まで運びました。千代松さんは平田舟2艘を陸上から引っ張りながら20数㎞運んだようです。規模から考えるに、人を雇って行なった可能性もあります。

「約定証」(本別町歴史民俗資料館所蔵『雑種記録 利別農場事務所』所収)

こうした土木・運搬業務を経て、千代松さんは材木業者として帯広に定着します。明治37年発行の「帯広有名家紹介表」には「材木商」、明治44年の『十勝商工人名録』に「木材商」として紹介されています。

「十勝国河西郡帯広町有名家紹介表」(帯広市図書館所蔵)上より二段目、左から二段目に千代松の名が見える。

内田千代松さんの動向を追ってきました。北海道が主催する記念事業は、道政がリードした行政区整備、移住政策、農業・鉱工業、鉄道・港湾の整備に関連する人物や出来事に光が当てられがちです。かつまた、それらの出来事を記す史料も多く残されています。

一方で、内田千代松さんのように単独で北海道に渡り、身体一つでさまざまな場所で仕事を請け負い立身していった人々もたくさんいたのではないでしょうか。こうした人びとの動向は、それをじかに語る史料が残りにくく、調べることは困難です。千代松さんは大樹町、帯広市、上士幌町、池田町〜本別町と広域的に活動しており、登場する史料も分散しています。

また、もしも千代松さんが、たまたま北見や釧路や札幌に仕事を見つけたらどうなるでしょうか。十勝を研究の守備範囲にしている私にとっては、格段に追跡が難しくなってしまいます。ですが、実態として仕事を求めて道内を渡り歩いたり、本州に戻る人は多くいたはずです。

残された文献から調査を行なうと、どうしても多く史料が残る領域から歴史が語られてしまいがちです。しかし、記録に残りにくい千代松さんのような流動的な人々もまた、それぞれの営みがあったはずです。こうした人々の営みを含めて、近代北海道150年があるのだと思います。

<帯広百年記念館 学芸員 大和田努>