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外国人による根室市の遺跡調査150年【コラムリレー第8回】

明治時代になり海外の学問をもたらした外国人の存在は、日本人研究者の育成や日本が近代化を果たす上で重要な役割を担っていました。ここでは私の住む根室市の遺跡と外国人研究者の関わりについて紹介します。

北海道の遺跡の特徴の一つとして、竪穴住居跡が現在の地面から凹みとして見えるということがあります。北海道特有ともいえる竪穴住居跡の凹みについては、函館の貿易商であり、津軽海峡にブラキストン線と呼ばれる動植物の分布境界線を設定したT.W.ブラキストンがいち早く気づいていました。1869(明治2)年に、宗谷湾沖で座礁したイギリス軍艦の調査に向かう際、現在の浜中町から上陸し、根室市槍昔に至るまでに竪穴群が多くあることに気づきました。また年代は定かではありませんが、根室港に浮かぶ弁天島にも竪穴群があることを発見しています。1978(明治11)年に函館を訪れたイギリス人の地震学者であるJ.ミルンは、ブラキストンから根室に竪穴群があることを教えてもらい、千島列島へ調査行った際に根室に立ち寄り、根室港に浮かぶ弁天島で小規模な発掘調査を行いました。

丘陵上にみられる竪穴住居跡(根室市西月ケ岡遺跡、撮影:竹田浩章)

ミルンが弁天島で発掘した土器は、のちにオホーツク文化とよばれる北海道特有の古代文化の土器で、8〜9世紀頃のものでした。E.S.モースによる大森貝塚(東京都品川区)の発掘が1877(明治10)年に行われ、お雇い外国人による近代的発掘調査として、日本考古学の歴史でも記念されていますが、ミルンの発掘はその翌年であり、オホーツク文化研究の歴史でも重要な調査とされています。また現在、国指定史跡となっている小樽市の手宮洞窟の調査も行っており、北海道の考古学研究の歴史でも足跡を残しています。ミルンは弁天島での調査をもとに論文をまとめ、竪穴住居跡を残した人々についても仮説を立て、その後、活発化する日本人の起源に関する研究に大きな刺激となりました。

根室港に浮かぶ弁天島遺跡(撮影:竹田浩章)

ミルンが小樽市で収集した土器。胴部に「Otaru. Yezo 1879」とある。(大英博物館、筆者撮影)

また、色丹島には1884(明治17)年に北千島から強制移住させられた千島アイヌがいました。千島アイヌも竪穴住居に暮らしていたことから、竪穴住居跡を残した人々を推定する上で研究対象とされました。1888(明治21)年にはアメリカ人のR.ヒッチコック、1889(明治22)年にはドイツ人のH.グリムが色丹島の千島アイヌの調査に行く際に、根室市内で竪穴住居跡を発掘しています。グリムは、床の平面形が四角形をした擦文時代後期(11〜12世紀頃)の竪穴住居を1軒分発掘しており、遺物の出土位置や土の堆積状況を図にするなど詳細な記録を残しています。

一方、明治時代に日本人学者も根室に来て調査をしていますが、人骨を研究対象としており、アイヌ民族の同意無しに墓を発掘したり、古人骨を目的に遺跡を掘るなど、研究上の倫理や手法に問題があり、遺跡の立地やその他の出土遺物にはあまり気を配ることはありませんでした。
このように根室市では明治の初めから考古学研究がなされており、明治時代以降も多くの研究者が訪れたことから、小学校の先生を中心に遺跡の分布調査を本格的に行う人も現れ、根室市内の遺跡を知る上で重要な研究を遺しました。

(根室市歴史と自然の資料館 学芸員 猪熊樹人)