沙流川のアイヌ工芸技術を読み解く
アイヌの実用品にみるものづくりの美しさは、江戸時代後半以降、あらゆる場で注目され続けてきました。
アイヌ工芸品が贈与・交換あるいは販売用に制作され始める年代は、少なくとも18世紀(西暦1700年代)まで遡ることができます。その後、明治・大正・昭和と移り変わる中で、農閑期の収入手段、博覧会への出品(1873年のウィーン万国博覧会など)、道内各地の観光地形成などといった経済活動とも結びついていきました。
沙流川流域はとりわけ、名工を数多く輩出している地域として知られています。イザベラ・バード(1878年)、吉田巌(1911年)らによるアイヌ工芸の称賛や、ハインリッヒ・フォン・シーボルト(1878年)、ハイラム・ヒラー(1901年)ら欧米の人類学者による収集民具など、1世紀以上前からの実証資料が今に伝えられています。
つちかわれてきた技とイタの魅力
イタは盆と訳されることからも分かるように、物をのせて運ぶために用いられるアイヌの生活用具です。日常生活で使う道具である一方、近世後半以降は次第に販売・交換用として制作される工芸品にもなっていきました。また、ウエペケレの中で皿として使われる表現もあることから、もともとは盆というよりも「直接その上に食べ物を盛って出すもの」(萱野 1979 『アイヌの民具』)とも解釈されています。
工芸品としてのイタの魅力は、木彫によるアイヌ文様が一面で完結していることにあります。そこには、マキリ(小刀)やトゥキパスイ(捧酒箸)とは異なる、施文の面的な広がりがダイナミックに表現されています。
制作にあたっては、彫刻技術もさることながら、デザインのバランス感覚が問われます。北海道・樺太・千島を含む広大なアイヌ文化圏のなかで、それぞれ規則的な文様配置がみられることから、アイヌ文様の地域性を考える上で非常に興味深い民具であるともいえます。
イタの文様と地域性
今日的なイタ制作の標本となるアイヌ民具の多くに、沙流川流域に来歴をもつ資料が残されています。彫刻される文様の内、最も共通的なものはモレウ(渦巻き文様)で、アイウシ(とげの文様)やラムラム(ウロコ文様)などが組み合わされます(写真参照)。
二風谷アイヌ文化博物館所蔵のイタ(重要有形民俗文化財) 貝澤ウエサナシ(1860-1939)作
その一方で、樺太や千島の盆は、からみ文や幾つかの直線による交差、三角形の列点など、北海道(特に日高地方)と異なる表現法によって彫刻されています。
正しく伝えることの意義
貝澤ウトレントク(1862-1914)は、明治・大正期の二風谷を代表するアイヌ工芸師です。現在でも子孫にあたる方が地元でアイヌ工芸品店を営み、受け継いできた技術を守り伝えています。氏は、同時代に活躍した貝澤ウエサナシと共に、1893年にイタ(盆)や茶托を制作し、札幌で販売を始めたとされています。
二風谷における工芸品販売の先駆けともいえるウトレントクのイタは、アイヌ工芸師の貝澤徹さんが所有しているほか、1912年にロシアの民族学者ヴァシーリエフによっても収集され、現在ロシア民族学博物館に収蔵されています。
時代を経ても変わらない技巧は、手づくりの品に一層の深みを与えます。イタの一面に彫刻されるアイヌ文様のデザインは、工芸師が育んできた創意の賜物といえます。工芸品としての美的感覚が高まっていく中で、時間をかけて沙流川らしさが編み出されていったものと考えられます。
貝澤ウトレントクのイタ(複製品:貝澤徹作)
伝統的工芸品の指定
平成25年3月8日の官報告示により、「二風谷イタ」と「二風谷アットゥシ」が伝統的工芸品になりました(経済産業大臣指定)。
全国で215品目ある中の2品として、北海道初の指定となります。今後は「伝統マーク」を使用した地域ブランドとして、幅広く展開していくことが可能になります。
またこのことは、北海道の深い歴史を伝えていくための付加価値にもなっていきます。工芸品の歴史を更に探求していくことで、新たな魅力の発見も期待できます。地元の工芸師の創作熱意と一緒に、二風谷アイヌ文化博物館としても調査・研究を継続していきたいと考えています。
伝統的工芸品指定の証 「伝統マーク」
<平取町二風谷アイヌ文化博物館 長田 佳宏>
来週の投稿は、帯広百年記念館の大和田さんです。お楽しみに!