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地域に眠る標本を掘り起こす【コラムリレー第3回】

 博物館法の第3条第2項には、次のような文言がある。

〔博物館法第3条第2項〕 博物館はその事業を行うに当つては、土地の事情を考慮し、国民の実生活の向上に資し、更に学校教育を援助し得るようにも留意しなければならない。

 「土地の事情を考慮し」とは、何を意味しているのだろうか?私は学芸員のいない地域の事を考慮しろという事だと考えている。

 学芸員がいない場合、資料が存在しても活用されず、どこかの片隅で放置された挙げ句、改築などの際に人知れず廃棄されるケースも多い。特に近年は少子化の影響で、地域資料の収集拠点であった小中学校の統廃合が相次ぎ、その際に理科室の標本類が廃棄されてしまうケースが後を絶たない。そんな地域に眠る標本を探し出し、保存の為の措置をとる事、目録を整備して活用の後押しをする事、そして地域の大切な学術資源である事を地域の皆さんに知ってもらう事は、博物館の専門的職員である学芸員がいなくては難しいだろう。そこで、少しでも地域に眠る標本を掘り起こそうと、十勝管内の各町村を訪ね歩いている。

本別町歴史民俗資料館の植物標本

本別町歴史民俗資料館の植物標本

 利別川の中流に、豆どころとして有名な本別町がある。この町の歴史民俗資料館は、学芸員こそ居ないが、郷土資料の収集保存や教育事業を行なっている施設である。この資料館に、白糠丘陵沿いの「本別公園」で採集した植物標本がある。数年前に「本別サイエンスクラブ」という市民グループが、公園の植物を調査して採集した標本だ。かつて一度展示した事がある以外は、今は活用されず、標本目録も作られていないと言う。そこで今回、当館の移動展(巡回展)の一環で標本を展示させてもらうと共に、ひととおり中身を検討させてもらい、誤同定の修正や標本目録の整備を行った。
 
 本別公園ではかつて別の調査が行われた事があり、その調査結果とも照合する事で、より正確な植物相を知る事にもつながる。白糠丘陵は道東の植物地理を考える上でも興味深い地域であり、今後の研究課題を考える上でも有益である。実際、従来の記録に無い植物も標本に含まれていた。本別町では、これをきっかけに、今年から再び植物採集を実施する予定だ。

本別空襲を伝える押し葉(本別町歴史民俗資料館所蔵)

本別空襲を伝える押し葉(本別町歴史民俗資料館所蔵)

 ところで本別町にはもうひとつ、標本ではないが、植物資料があった。それは本別空襲を伝える押し葉である。1945年7月15日、当初帯広市を攻撃目標としていた米軍機は、天候の関係から目標を変更(異説もある)。雲間から確認できた本別町を空襲する。その際、火の手から逃れる為に本別沢へ飛び込んだ町の人が、無意識につかみ取った川岸の植物で、今日まで本に挟んで残されてきた。ここには、サイエンスクラブの標本や従来の調査結果にも無い植物が含まれている。空襲の記憶を伝える歴史資料であると共に、植物研究の上からも興味深い資料と言える。
 
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 本別町の南東に接する浦幌町に、浦幌町立博物館がある。この町にも植物標本があると言う。訪れてみると、ここには大別して3種類の標本があった。1つは小学校が昔購入した教材用標本。もう1つは学校の教員をされていた方が収集した標本。もう1つが隣の池田町に住む人から寄贈された標本である。特に池田町の方の標本は丁寧に作られており、同定や学名なども正確だ。町内の他、大雪山や本州で採集されたものもある。いったいこの採集者はどんな人物なのだろうか?そこで、標本自体の検討と共に、採集者についても調査してみた。

植物標本を残した吉田牧師(右端の人物)(日本福音ルーテル池田教会所蔵)

植物標本を残した吉田牧師(右端の人物)
(日本福音ルーテル池田教会所蔵)

 すると、この採集者は植物好きの牧師さんだった事がわかった。九州の生まれで横浜や東京の教会で牧師をしていたが、戦争によって牧師職を失い、集団帰農者として浦幌町へ移住。慣れない農業に従事しつつ信仰の種を播き続け、池田町に教会を設立する際に請われて転出したのだった。もともと植物への関心が強く、地元の営林局から依頼されて地域の植物調査をしたり、教会堂を新築する資金を得る為に押し花色紙を作って販売していたと言う。調査の過程で、集団帰農者の事や浦幌、池田の宗教史の一端、また池田に建てられた教会の建物と浦幌炭鉱との関係など、さまざまな地域史における事実も浮かび上がった。

胴乱をかついで野外礼拝へ向かう吉田牧師(日本福音ルーテル池田教会所蔵)

胴乱をかついで野外礼拝へ向かう吉田牧師
(日本福音ルーテル池田教会所蔵)

 浦幌町立博物館のご配慮により、クリスマスの日に標本をお借りして、池田町の礼拝堂に標本を展示し、教会の方々に見て頂く事ができた。偶然にも、この日は牧師さんの帰天日(命日)でもあった。2つの町の歴史を標本でつなぐ。こうして植物標本がきっかけで、人の縁が生まれたり、関連するさまざまな事がわかる事は少なくない。
 
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昭和初期のカムチャツカ半島で採集された標本(帯広市児童会館所蔵)

昭和初期のカムチャツカ半島で採集された標本
(帯広市児童会館所蔵)

 実は帯広市にも、永年、陽の目を見ずに眠り続けている標本がある。当館の隣に建つ帯広市児童会館は青少年科学館の機能を持ち、当館が出来る前は郷土資料室も運営。さまざまな歴史資料と共に、植物標本の寄贈も受けていた。その標本は、明治・大正期の十勝や、昭和初期のカムチャツカ半島で採られた標本である。これは教育者で研究熱心な兄と、兄想いの水産技師である弟の協力で生み出されたコレクションであった。ワラ半紙にガリバン刷りの標本目録と共に、今は児童会館の理科室に保存されているが、その存在を知る植物学者は少ない。そこで、この標本の経緯が記されたガリ判刷りの標本目録をまずは活字化し、雑誌へ公表した。今後、標本本体の検討を行い、破損部分の修復と同定、新たな目録づくりを進める予定である。
 

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 現在、分類学連合が中心となって、全国の植物標本の実態調査が進行している。そこでこの機会に、十勝に限らず、北海道内でまだあまり存在が知られずに眠っている植物標本に光を当てるべく、全道の学芸員に呼び掛けて情報を集めている。既に、これまで予想もしていなかった博物館から「実は植物標本がある」と連絡を頂いている。また、当館の事業を通じて、廃棄寸前だった標本を届けに来てくれた中学校もある。

 私たちは大学や国立の博物館と異なり、予算規模も学術基盤も弱い地域博物館である。ローカルな資料が多く、グローバルな学問研究を精力的に進める力も弱いかも知れない。しかし、一方で地域博物館には、地域の歴史を記録する「ローカルな」仕事と共に、ローカルな資料に光を当て、よりグローバルな学術資源へと昇華させる「橋渡し」の役割もある。ヒトとモノをつなぐ、資料と研究者をつなぐ、また地方と中央をつなぐ働きとも言える。そのためにも、私たち地域博物館の学芸員は地域に眠るさまざまな資料へ常に目を光らせ、今日も歩き回っているのである。

<帯広百年記念館 持田誠>

 
 

来週は厚沢部町教育委員会の石井淳平さんの投稿です。どうぞお楽しみに!