「昔は魚がいっぱいいた。」という話を聞くことは決して珍しいことではない。しかし、その”いっぱい”が具体的な数字で語られることは意外と少なく、幻の魚といわれるイトウも例外ではない。
10年ほど前だったと思う。イトウの生息記録に関する文献を整理する作業のかたわら、昭和初期に書かれた報告書の一文にくぎ付けになった。
「いとうハ主ニ釧路川ニ棲息シ(湖中ニモ棲息スレド多カラズ)産卵時ニ至リ釧路川ヲ遡上シ屈斜路湖ニ入リテ産卵ス、春季5月上旬ヨリ産卵期ニ入ルガ故屈斜路湖排水口附近の湖中ニ刺網(網目大サ5寸)ヲ投ジ、體長約2尺2寸及至3尺2寸體重800匁及3貫ノモノヲ親魚トシテ捕獲シ、未熟ノモノハ一時ぽんとう内畜養池ニ畜養、成熟ヲ待ち雌2尾對シ雄5-6尾ノ割合ニ配合シ人工採卵(開腹法)受精ヲナシ、ぽんとうノ奥地の平水式孵化槽中ニ収容ス。」
(『昭和8年北海道水産試験場編 湖沼調査 水産調査報告第28冊』より抜粋。)
上記の文を意訳も交えて解釈すると、
昭和4年(1929年)頃の話として、「イトウは主に釧路川に生息しているが、5月上旬から産卵の為にイトウたちが、釧路川を遡上して屈斜路湖流出部付近までやってくる。そのイトウをねらって、流出部附近の屈斜路湖内に刺し網(目合約3㎝)をしかけて、体長約67㎝~98㎝のイトウを捕獲し、人工採卵(開腹法)を行い、受精させた。」という孵化場の事業報告だ。
また、当時の同孵化場におけるイトウ親魚捕獲数について調べてみると、1928年~1935年の8年間に合計1517尾(毎年平均190尾)のイトウ親魚の捕獲を行い、イトウ稚魚の放流事業を実施、とある。試験的事業とはいえ、80年以上も前に道東の奥地でこれだけ大規模なイトウの孵化放流事業が行われていたことを知り驚いた。しかし、それ以上に、驚いたのは”合計1517尾” ”毎年200尾前後”というイトウ親魚捕獲数を指す数字だ。
また、括弧書きの「開腹法」という言葉も気になる。現在のサケマス人工ふ化放流事業でも使われている方法だが、読んで字のごとく、刃物でお腹を切り開いて雌の卵を取り出す方法だ。産卵後すぐに死んでしまうサケとは違い、イトウは産卵後も生残し、生涯のうちで何度も繁殖を繰り返すという生活史を持つため、現在、試験場などで行われている本種の人工受精は切らずに、お腹をさすって、卵を絞り出すという方法でおこなうのが普通だ。お腹を切って、生きていられるはずがないので、当時多くのイトウが犠牲になっていたことは想像に難くない。しかし、8ヵ年に及んだ当該事業の最終年(1935年)の捕獲数をみると、280尾とある。それ以前の過去7年間で累計1362尾ものイトウ親魚の捕獲をおこなった後の話である。数字に間違いがなければ、とてつもない数のイトウが当時、屈斜路湖に産卵遡上していたことになる。現在の北海道内でトップクラスの生息数を誇る道北の猿払川流域でさえ、イトウ親魚の生息数は1000前後と言われている。上記の数字が屈斜路湖のみの捕獲数であり、屈斜路湖の釧路川流域全域に占める面積がおよそ30分の一程度であることを考えると、当時の釧路川流域のイトウ生息数はどれほどのものであったのだろうか。
・・・その後、人工ふ化放流事業が終了したおよそ3年後の1938年、屈斜路湖に産卵遡上していたイトウの大群は思いもよらぬ理由で全滅することになる。1938年に起きた屈斜路地震により湖水が酸性化し、ほぼ全ての魚類が死滅したのだった。地震という自然現象が理由とはいえ、地震が起きていなかったら・・・思いを巡らせずにはいられない。
<釧路市立博物館 学芸員 野本和宏>