私がその建物の姿を初めてみたのは、大学の恩師のお土産のリーフレットでした。
タイトルはСахалинский Областной Краеведческий Музей (サハリン州立郷土博物館)。サハリンの博物館がなぜ日本のお城の形をしているのでしょう?
サハリン島はどこの国とも決まっていない状態が長く続きましたが、樺太・千島交換条約でロシアとなり、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南が日本の領土と決められました。樺太とよばれたその土地に人が集まりはじめると、町ができ、町には駅や商店や学校が作られます。博物館や図書館も作られました。
そして1937(昭和12)年に竣工なったのが、私が日本のお城と思った樺太庁博物館です。
「樺太庁博物館」とされる博物館は全部で五ヶ所、場所をかわったようで、最後の樺太庁博物館が、リーフレットの建物でした。
三ヶ所めの建物を探してみました。前は陸軍守備隊司令官官舎だった建物です。1923(大正12)年に樺太を旅した宮澤賢治が訪れたとしたら、この三ヶ所目の樺太庁博物館だったでしょう。
五ヶ所目の樺太庁博物館は、建築用語で帝冠様式とよばれる、コンクリートの本体に、和風の屋根をかけるという建築様式です。博物館の建物として考えると、文化の殿堂として威容を誇るデザインもですが、実利的な面ではコンクリート製であったことが重要でした。耐震耐火のためにこの様式になったのではと考えています。
その樺太庁博物館にもっとも火災の危険があったとすれば、戦争終結直前だったと思われます。ソ連軍が国境をこえてせまってきました。戦災で資料が焼失したり、破壊されたりすることは、残念ながら珍しいことではありません。
ところが、樺太庁博物館の建物が現在サハリン州立郷土博物館として使われています。一体どんなふうにして、サハリン州立郷土博物館となったのでしょうか。舟山廣治編著『樺太庁博物館の歴史』(2013 北海道北方博物館交流協会発行)によると、樺太の占領政策において教育・文化施設の確保が図られたということです。つまりソ連の政策で樺太庁博物館は、サハリン州立郷土博物館となったのです。
最後の館長山本利雄さんは「敗戦直後、樺太庁の役人がすぐ帰れといったが、わたしは博物館を完全に引き渡すまでは帰らぬとがん張った」と語っています(山本利雄(祐弘)『北の家・南の家』1974相模書房)。引継ぎが具体的にどうなされたのかも気になる部分です。戦災に限らず、危機にあって博物館職員が何よりも資料を優先して行動したという例は枚挙にいとまがありません。これは、いざというときの世界中の博物館職員に共通することではないかと思っています。
おかげでサハリン州立郷土博物館からは、樺太庁博物館を感じることができます。樺太庁博物館の印刷物に掲載されている資料が展示されていたり、70年以上前のジオラマも現役で活躍していたりしています。
サハリン州立博郷土物館は、今ではサハリン市民の憩いの場となっていますし、樺太から日本に引き揚げてきた人たちにとっては、懐かしさがつまった場所です。親しまれる(親しむ)博物館というフレーズが盛んに使われていますが、国境をこえてこれほど親しまれている博物館というのは、樺太庁博物館とサハリン州立郷土博物館を措いてないのではないかと思います。そうした存在になっている理由が、単に資料やジオラマが引き継がれたというだけではないように思い、二つの博物館の間にあるものは何なのかを考えています。
ところで、一条ゆかりさんの漫画『有閑倶楽部』の剣菱邸が、この樺太庁博物館をモデルにしたのではないかと密かに思っているのですが、さてどうでしょうか。
【北海道立北方民族博物館 笹倉いる美】