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利尻島に伝わった越中獅子舞のルーツをさぐる【コラムリレー第4回】

利尻富士町には、昭和54年、町無形民俗文化財に指定された南浜獅子神楽という伝統芸能がのこされています。昭和40年代までは、地元の南浜神社の祭典に奉納されていましたが、昭和43年に保存会が結成され、北見神社の奉納へと移行しました。以来、こどもたちへの伝承や町内の祭典等で舞われています。

 

 

利尻島の地名

利尻島の地名

本神楽の構成は、天狗役が大天狗と小天狗(まねこき)1名ずつ、獅子役が頭役1名、胴幕のなかに4名、尻尾1名、囃子方は大太鼓2名と笛数名です。舞の演目は、祈り、三番叟(さんばそう)、護身、悪魔払い、豊漁、豊穣、安穏(あんのん)、悟了(ごりょう)、獅子殺し、感謝の10種で、楽曲は笛と太鼓で構成され、祈願と薙刀(なぎなた)、弓鎌、三番叟の4種があります。

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昭和40年代の獅子神楽

 

本神楽の伝承元は富山県で、時期は明治年間とされていますが、詳しい経緯は不明です。富山の獅子舞は、呉東では二人立ち獅子(下新川、金蔵)、呉西では百足(むかで)獅子(氷見、砺波、射水)が分布し、芸態によりカッコ内の5タイプに分類されます。本神楽は百足獅子で、獅子が5~6名で胴幕に竹の輪を使わず、手で張る氷見と射水の特徴を具えています。獅子あやしは、氷見が天狗、射水は少年2人一組5~6名で花笠をかぶります。

南浜(旧地名:目忍路(めぬうしょろ))の入植については、明治9年には永住11戸、年間の寄留者数百人に増加したといわれ、人々は豊漁や旅の無事を願うために故郷の神楽を舞い、集落の神社に奉納しました。その後、神楽は祭典行事の一環として毎年行われたようです。

大正7年の鬼脇村890戸を対象とした出身地別戸数調査によれば、青森が全体の28%を占めていますが、次いで秋田は沼浦、鳥取は清川、福井は南浜と鬼脇、富山は南浜というように、集落により出身地の割合が異なります。

明治23年には、新潟県より来島した佐々木順楽が正徳寺を創設しました。明治25年には、利尻尋常小学校目忍路分校が開校、富士沼竜宮神社が建立されました。大正7年の南浜の出身地別来住年の推移をみると、明治22年以降、30年代末にかけて戸数が増えており、北陸出身者は浄土真宗系でその多くが正徳寺の檀家となっています。

さて、利尻島郷土資料館所蔵の神楽の道具のなかに由緒を示す資料があります。外側に「奉納 越中新湊町 松谷長吉」、内側に「越中大門東町 新庄屋 久五郎 山ヨリ■出ハ 寅春口渡 壱尺壱寸 安政二年乙卯春 新出来仕候」と墨書された太鼓は、安政2年に富山で製作し奉納され、後年本神楽のために持ち込んだもののようです。

太鼓

南浜神社に伝わった太鼓

現在の獅子頭は三代目ですが、初代は利尻で製作されたと思われるもので、表面が朱で彩色されています。二代目は、昭和46年に寄せられた富山県井波の彫刻家野村清太郎氏の書簡によると、新湊市(現射水市)放生津(ほうじょうづ)のものと記されています。

獅子頭

初代獅子頭

本神楽の伝承時期は、神社が設置された明治25年以降という見方が妥当です。

本神楽は、氷見と射水の混交型と考えられます。氷見の特徴である獅子あやしが天狗であること、射水の特徴として、獅子頭の形態や放生津の「オベッサン」という演目が、本神楽の弓を釣り具に見立て豊漁を祈願する豊漁の舞に類似していること、双方の特徴である胴幕を手で張ることがその根拠です。

このようにルーツが1つに定まらないのは、富山各地から来住した人々によりそれぞれのスタイルが採り入れられアレンジされてきたからではないでしょうか。

道内には、57例の越中獅子舞があり、砺波型と氷見型が大半です。日本海沿岸には、宗谷では本神楽が唯一、留萌では、留萌、羽幌、天塩、初山別に分布しています。

子ども神楽

子どもたちによる獅子神楽

今後、富山と道内各地に分布する獅子舞との比較研究が、更なる本神楽の追究の手がかりとなるでしょう。

<利尻富士町教育委員会 学芸係長 山谷文人>