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礼文島移住者第1号の証し【コラムリレー第36回】

開拓使賞状

礼文島では、江戸時代に入り場所請負制による漁場開発を機に本格的な開拓が始まります。そんな中、一般漁民として礼文島へ渡り漁場を開拓した第1号が柳谷万之助(やなぎや まんのすけ)です。

礼文町史によれば柳谷万之助は青森県出身で、弘化3年(1846年)に礼文島に渡り、現在の香深地区(正確な場所は不明)にて漁場開発に当たり、元治元年(1864年)には現在の尺忍地区にて漁場を経営したとされています。さらに、大正7年発行の『開道50年記念北海道』では、万之助の孫の柳谷石松が紹介され、その文中において万之助に関する記述があります。少し長くなりますが以下に紹介します。

「未開無人の島嶼にありて率先漁業を経す其困苦に耐え艱難に忍ぶ勇気と忍耐あるにあらざれば克はざる なり、萬之助克く不撓の精力を以て之を忍び之に耐えたるの志操は以て現時礼文島漁業の全盛を誘致したるものたり、後ち病を得て没す。享年五十有五。萬之助資性剛直意思飽迄堅く一たび彼が礼文島の漁業に従うや、剛直頑強を以て終始一貫遂に子孫長久の計を為せしと同時に、礼文島開発の上に偉大な効果を賦与したる、彼が非凡の努力は長く同島の発展と共に記念すべきものとす」

明治に入り、開拓移住が増加する中、万之助の成功をたよりに、その親戚縁者が続々と礼文島へ渡り、島内の漁場開発は一気に進展していきます。柳谷一門の宗家として、万之助とその直系の子孫たちは、漁業で成功を基に、島内の生活基盤整備にも尽力します。そんな万之助に関わる資料は、実はほとんど現存していません。唯一の残されていた資料がこの開拓使賞状で、書き下すと次のようになります。

「礼文郡公立病院新築費の内へ、金十円を差し出し候処、奇特につき、その賞として木盃一個、ならびに真綿一包みを下され候事」

明治11年、島内に香深村、尺忍村、船泊村、神崎村の4村が定められ、明治13年、香深村に戸長役場が置かれ、明治17年には香深村に礼文病院が設立されます。この賞状は、万之助がこの病院の建設費用を寄付したことを称え、木盃と真綿を授与したことを記しています。

礼文島に限らず、北海道内各地において開拓の祖、あるいは発展の礎などと称えられる入植者たちが数多く存在しています。先人たちの苦労と成功、地域への貢献を思い起こさせる多様な資料を永く後世に伝えたいものですね。

(礼文町教育委員会 主任学芸員 藤澤 隆史)