展翅板(てんしばん)という道具をご存知ですか。昆虫標本作りに無くてはならない道具です。チョウやガの翅(はね)を広げて展翅板にのせて、パラフィン紙と留針で翅を固定すると、翅の形を崩さず、左右対称(シンメトリー)の美しい標本にすることができるのです。乾燥したら翅板からはずし、標本箱に整然と並べ、データラベルを添付します。
昆虫植物研究器具を取り扱う志賀昆蟲普及社(東京)では、小型のシジミチョウから大型のアゲハチョウ、外国産の大きなトリバネアゲハまで対応できるよう、1号から6号、特大、特特大まで各種サイズの展翅板を取り揃えています。しかし、開帳(翅を広げた横の長さ)2㎝にも満たないキバガ科以下の小さなガ(ミクロレピと呼ばれます)をはじめ、微針という小さな針で展翅しなくてはならない微小な昆虫類には、既製の展翅板がないので、バルサ材や発砲スチロールで手作りします。逆に、大きなチョウの場合、時間が経つと翅が重さで下がるため、最初から上方へ傾斜をつけた高価な傾斜付き展翅板を使います。
私が昆虫採集に夢中になったのは小学校低学年の頃からです。「小中学校夏休み作品標本展」で、同級生や先輩が展翅板を使って完成させた美しいチョウの標本を見るたびに、自分もあのように作りたいとの思いを募らせたものです。しかし、当時の小遣いでは千円ほどする高価な展翅板を買うことができず、菓子箱の厚紙や段ボールでひと夏だけの展翅板を手作りしました。小学6年生になったとき、はじめて志賀製の展翅板を購入して、昆虫学者(のちに学芸員)への道を志したことを思い出します。
多くの昆虫は1年、長くても数年で土へと召される儚い命です。しかし、展翅板に乗せられた個体だけは無理やり時間を止められ自然界の循環から切り離されます。そして科学的なデータラベルと共に、自然や人々の営みを振返る証拠品として数百年間にわたり博物館に収蔵され、人類の知的財産として学術や教育に生かされ続けます。博物館は、恒温恒湿管理、文化財IPM(総合有害生物管理)といった保存科学技術を駆使して過去を語り続ける、「温故知新」という名のタイムマシーンですね。鉄が元に戻ろうと赤く錆びるように、標本たちも土に還ろうとします。それを必死で食い止める道具のひとつが展翅板。仲間とは違う道を歩まねばならない標本たちに「天国では天使たちに見守られ幸せに暮らしてほしい」と、しゃれと願いを込めて語りかける為に、私はひそかに展翅板を「天使番」と呼んでいます。
北網圏北見文化センター 柳谷卓彦
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昆虫採集は、図鑑を調べ、発生時期や食草、習性や過去の採集データ、仲間からの聞き取りなどを参考に、採集地を決めることから始まります。そして、網とカメラを手に、自転車にまたがり、地図を頼りに野山を駆け巡り目指すチョウを採集します。楽しい昆虫採集はここまで。このあとに待っているのが疲れきった身体で、ひとつ5~10分、翅を破らないよう神経を集中させて展翅版に固定する展翅作業です。昆虫採集で一番重要な作業となります。