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まちの記憶と文化を刻む古い建物たち【コラムリレー第11回】

富良野地方は、東に大雪山系、西に夕張山地が聳える自然環境豊かな地域です。こうした豊かな自然環境とそこに生息する多種多様な生き物も後世に残し伝えたいとても大切な事柄ですが、このコラムでは富良野市博物館が現在取り組んでいる「歴史的建造物」を紹介します。

富良野市では、平成23年から3年をかけて、明治から概ね昭和30年代に建築された築50年以上の多種多様な建物の調査を実施しています。例えば、学校、病院、消防施設、鉄道関連施設、商店、倉庫、旅館、下宿、民家、社宅、工場、宗教施設などあらゆる建物が対象です。これらの中から約300件を抽出、さらに約100件について聞き取り、文献調査、写真撮影、図面作成(図面は一部)を行い、平成26年に調査結果を記した報告書を刊行予定です。

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↑北海道建築士会富良野支部の皆さんと研修会(山部の旧澱粉工場乾燥庫)

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↑山部地域の農家住宅(煙突はオンドルの名残)

 

道内では主に海岸部の歴史ある町や比較的人口の集中する都市部において詳細な調査事例がいくつかあります。例えば、小樽市、稚内市、江別市、帯広市でこうした調査が行われています。また函館、小樽などの歴史ある港町では積極的に古い建物を活用したまちなみの整備が行われていますし、ニシン漁で栄えた余市や留萌などではニシン漁の関連施設が、さらに道都・札幌市は北海道開拓使や札幌農学校、屯田兵にまつわるものなど、様々な建物が保存・公開されています。

*小樽市HP www.city.otaru.lg.jp/simin/gakushu_sports/kenzo/…

 

一方、富良野地方のように、明治後半以降に開拓された多くの内陸部では比較的近代以降の歴史が浅く、関心が希薄なためか、歴史的建造物を保存・活用する動きはどちらかといえば活発ではありません。最も古い事例は明治30年代後半で、当然のことながら明治・大正期、昭和初期の建物はすでに希少な存在です。このように古い建物が次々と姿を消していく現状にあり、当市のような調査は内陸部においては極めて稀だそうです。

リストアップした建物は一見した限り、とても重要とは思えないような例も散見されるかもしれません。しかし、その歴史を紐解くと富良野市のあゆみを体現する歴史的価値ある建物と理解できるはずです。

このコラムは極めてローカルな話題ではありますが、読者の皆さんがお住まいの町を思い浮かべ、比較しながらお読みいただければ幸いです。とはいえ、富良野といえば、倉本聰さんのドラマ「北の国から」「優しい時間」「風のガーデン」の富良野三部作・ロケ地として有名で、紹介する建物の中にはロケ現場として登場する建物も多々あります。意外と「あぁ、あれね!」と思い出される方もいるはず。富良野は道内でも有数の観光地。富良野駅前周辺にある建物なら、観光ついでに訪れてみるのも良いでしょう。「北の国から」とラベンダーだけではない富良野の一面をぜひご覧ください。ただし、紹介する建物のすべては観光施設ではないので、商業施設以外は内部に入ることはできません。次には、観光ついでに訪問しやすい、主に富良野市街地に立地する歴史的建造物を写真とともに、いくつか簡単に紹介します。やや冗長になりますが、お付き合いください。

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↑紹介する建物の位置図(富良野市街地)

①炭火焼肉YAMADORI(旧河村合名酒造酒蔵) 【富良野市朝日町4-22】

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鉄道が移動や物流の主役だった時代、市街地は駅を中心に発達したもので、大規模な再開発事業が行われていない限り、古い建物は駅周辺に遺されていることが多いでしょう。富良野市街の場合、最多の事例は玉葱や馬鈴薯などの農産物や塩、米などを保管する倉庫です。市街地には築50年以上の倉庫が10数棟現存し、大半は今も現役です。

これら数ある倉庫のうち、最古の例が1911年(明治44)建築の「炭火焼肉YAMADORI」店舗です。この建物は、そもそも河村合名酒造店という造り酒屋の酒蔵でした。その後、第一次大戦後の不況のあおりで酒造業から撤退、酒問屋の倉庫となりました。時を経て、1991年(平成3年)、現在のお洒落な焼肉店に改装・転用されましたが、外観は往時の姿を比較的良く留めています。

構造は外壁に軟石を積み上げ、内部の柱や梁に木材を用いる木骨石造。道内では主に「札幌軟石」や「小樽軟石」、「美瑛軟石」などが知られますが、本例は近在の「美瑛軟石」、もしくは「札幌軟石」と推測されます。中に入ると、剥き出しになった洋小屋組の骨組みがお洒落な雰囲気を演出しています。「ふらの和牛」をはじめ、おススメの新鮮な焼肉メニューが目白押し。歴史の重みを感じつつ、お食事を楽しむことができます。

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↑炭火焼肉YAMADORIの店内

裏手にある燻煙工房YAMADORIでは、ソーセージ、ベーコンを販売しており、お食事は富良野のB級グルメ・オムカレーがおすすめです!

*燻煙工房YAMADORI HP kunenkobo.com…

 

②小玉邸  【富良野市朝日町4-20】

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炭火焼肉YAMADORIさんの隣に人目を引く洒落たレトロ調の建物があります。煉瓦造り2階建ての民家で、1951年(昭和26)の建築です。「北の国から」のロケでは喫茶店として使われました。確かに、その外観は喫茶店のようにも見えなくはないですが、ごく普通の民家です。

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↑新築当時の小玉邸

人目を引く要因の一つは、美しい曲線を描くアーチ型の屋根でしょう。旧国鉄から払い下げを受けた線路を垂木代わりに用い、湾曲させてこのような屋根形状を作り出したそうです。屋根には半円状の庇を持つ出窓が5か所設けられ、可愛いらしい雰囲気を醸し出しています。玄関上部にはバルコニーが、また外光が取り込まれやすいよう、比較的大きな窓を全体にバランス良く配置します。壁面は煉瓦の色調とマッチングしたアイビーの蔦で覆い尽くされ、レトロな雰囲気を一層盛り上げます。小玉邸の前を歩くと、時折カメラや絵筆を構える方を見かけることがあります。今も昔も衆目を集めるメルヘンチックな建物です。

 

③株式会社北印・農産物保管用倉庫  【富良野市日の出町4-24、若松町14-12】

富良野市は今も昔も農業を基幹産業とする町です。市街地には主に大正期から昭和30年代に建築された農産物保管用の倉庫が多数残されています。当時、富良野地方では特に馬鈴薯の生産が盛んでした。この馬鈴薯を集出荷するための保管用倉庫が9棟、今も現役で使用されています。

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このうち駅前・五条通の(株)北印事務所裏にあるのは、大型の石造倉庫です。大正時代に馬鈴薯貯蔵用として建築され、当時は富良野では唯一の瓦屋根だったそうです。元は純石造りでしたが、馬鈴薯のバラ貯蔵による内圧が原因で壁面が歪み(現在はコンテナ貯蔵)、昭和30年代に基礎・内外壁の補強工事を行ったため、建築当時と外観がやや異なります。1945年(昭和20)7月15日、アメリカ海軍・艦艇機により富良野駅周辺が空襲を受け、数名の方が尊い命を失っています。一見しただけではよく判別はできませんが、このときの弾痕が壁面に残っているそうです。

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一方、国道38号線沿い、富良野小学校グラウンド向いにある倉庫は、馬鈴薯粉末製造業を営んでいた名取食品(株)の例で、1948年(昭和23)の建築です。木骨煉瓦造で、煉瓦は長手(横長の面)と小口(小さい面)の段を交互に積み重ねるイギリス積みです。同社廃業後、昭和30年代に買い取られ、現在は北印の玉葱保管用倉庫として活躍しています。

 

④つるや金物店(旧福田医院、旧農協宿舎) 【富良野市日の出町4-18】

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金物店らしからぬ外観ですが、実はそもそも福田医院という洋風建築の病院でした。1932年(昭和4)発行『下富良野市街図』には「福田医院」と明記されますが、詳細はよく分かっていません。昭和初期に建築され、戦時中あるいは戦後直後の短期間のうちに閉院したと推測されます。戦後、この建物は一時、富良野町農協の宿舎となり、その後1963年(昭和38)、当時駅前で店を構えた寺西商店が農協と土地・建物を等値交換、建物をやや北側に移動させ、金物店舗に改装、現在の金物店を開業したと伺いました。

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↑昭和40年代初めのつるや金物店(まだ洋風窓が残されている)

木造2階建の寄棟屋根。昭和40年頃の写真では窓は笠木付き、組子の上げ下げ窓だったと分かりますが、現在は後の改修で様変りしています。しかし2階内部には天井板や洋風のドア、窓枠などに病院らしい建築当時の面影がはっきりと残されていました。

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この建物も、ドラマ「北の国から ’95 秘密」に登場します。宮沢リエ演じるシュウが勤めた金物店でした。

*富良野五条商店会HP furano-gojo.com…)。

ところで「北の国から」めぐりをしたいなら、まずは駅前の「北の国から資料館」がおススメ。この建物、元は1955年(昭和30)建築の富良野町農協の倉庫でしたが、2003年に改修を施して資料館としてオープンした建物です。「北の国から」のイメージにマッチングした建物の雰囲気もお楽しみください。

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↑北の国から資料館(旧富良野町農協倉庫)

 

⑤渡部医院 【富良野市本町1-10】

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ドラマ「風のガーデン」では、緒形拳演じる白鳥貞三が営む白鳥医院、「北の国から」では財津病院として登場しました。1923年(大正12)、初代院長出身地の福島県で親戚が経営する病院の建築様式を模倣して建てられました。

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↑建築当時の渡部医院

木造2階建てで、寄棟屋根には屋根飾りを持ち、外壁は水平の目地を装飾的に見せる「ドイツ下見」で施工されます。窓は笠木付き、組子の上げ下げ窓で、窓台下には小さなブラケットが貼付されています。大正期の洋風建築物らしい実にモダンな建物です。市内では往時の外観を留める洋風建築物はこの1軒のみです。

 

 

⑥島田邸  【富良野市若松町9-10】

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国道38号線にほど近い、「本通り」に面して門を構える島田邸は市内では隋一の純和風建築物です。1941年(昭和16)の建築で、入母屋屋根の木造平屋建て。伝統的な和風住宅らしく縁側には雨戸を持ち、戸袋が備えられています。築後70年以上を経過しますが、基礎がコンクリート施工だったことも建物が保持された理由の一でしょう。建物周囲に板塀が巡っているので、全体像は見えにくいですが、小まめな手入れが隅々まで行き届き、敷地全体に純和風建築らしい凛とした美しさ、清潔感、厳格さが感じられます。

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相田木材(株)の帳場であった先代が建材に強いこだわりを持って建てたのだそうです。板壁は細かく丁寧な押し縁下見でエゾマツの柾目板がふんだんに用いられ、また室内も壁や柱、梁、天井板など目につくところは、ほとんどがアカエゾマツやエゾマツの柾目板です。なお、小玉邸、島田邸はともに民家なので、見学はできません。

⑦富良野神社神輿庫 【富良野市若松町17-10】

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鬱蒼とした森林が拡がる富良野盆地に鍬入れをした開拓時代。想像を絶するような艱難辛苦に立ち向かい、原野を伐り拓いた移住者たちは心の拠り所となる場所を求め、また新しく誕生したコミュニティのシンボル的存在を渇望しました。道内各地の神社仏閣は開拓者たちの紐帯となるべく、産声を上げた例が多いことでしょう。

 市内で最も歴史ある「富良野神社」は1902年(明治35)、東4条南2丁目に小さな祠を創建したのが始まりです。5年後には国道38号線沿い、富良野小学校向いの現在地へ移転、1915年(大正4)に威容を整えるべく社殿造営がなされました。現在、神社本殿の西側に建つ「神輿庫」はこの時新築されたかつての拝殿です。1936年(昭和11)、現在の壮麗な本殿が造営され、旧拝殿は役目を終えて脇へ移設、神輿庫として再利用されることとなりました。屋根は入母屋屋根、外壁は下見板張りですが、古写真を見ると、かつては縦張りだったようです。外壁上部と内部は漆喰で仕上げられています。

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↑大正8年の富良野神社拝殿(現在の神輿庫)

境内には、樹齢300数十年を経過した御神木のハルニレをはじめ、28種もの在来外来樹種が植栽されています。市街地ではありますが、野鳥を観察することができ、チゴハヤブサの営巣地として知られています。近年、観光スポットとして有名になった「ふらのマルシェ」から徒歩5分。参拝に訪れてみてはいかがでしょう。

⑧JR山部駅・危険品庫1号  【富良野市山部中町1-1】

最後に、富良野市街から離れますが、富良野駅から根室本線に乗車、2駅帯広方面に向かった山部駅の建物を紹介します(地図上には記載なし)。

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下り線プラットホームに煉瓦造の小さな「危険品庫」と呼ばれる建物があります。いかにも危なげな名称のこの建物は「ランプ小屋」「油倉庫」と通称されます。かつて汽車の尾灯や客車の室内灯などに使用した燃料油保管用の建物です。そのため、不燃性の煉瓦や軟石を用いて建てられる例がほとんどです。明治期開業の主要駅には、必ず危険品庫が置かれたものでした。その後、電化普及で油類保管が不要となり、また駅の増改築などで多くのランプ小屋はその姿を消していきました。

山部駅の危険品庫1号は、1911年(明治44)の建築で、市内では極めて希少な明治期の煉瓦建築物です。平屋建てで床面積はわずか9.9㎡。屋根は切妻形状でトタンによる菱葺き。煉瓦は現代より一回り大きな明治期の煉瓦であり、長手と小口の段を交互に積み重ねるイギリス積みです。軒下には、渋みのある紫色をした「焼き過ぎ煉瓦」が、また扉上部には御影石を用いたアーチ状の庇を配置して、装飾的に仕上げられています。極めて小さく、実用的な「倉庫」でありながら、外観のデザインにも気配りがなされるところは、さすが明治時代の建築物。ちょっとハイカラな洋風建築物なのです。南富良野町金山駅にも同年建築、同様式のランプ小屋があり、同じく現役で使われています。

ちなみに、ランプ小屋隣の木造倉庫と旧駅舎の一部と思われる富良野タクシー山部営業所は1935年(昭和10)の建築、また19線の踏切脇にある「旅客詰所1号」と呼ばれる小さな小屋は、1900年(明治33)に山部信号停車場が開業した当時の建物で、調べた限りでは市内最古の現存建築物です。ごくごく小さな無人駅ですが、山部駅は古い建物が現存する趣ある場所です。

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↑旅客詰所1号

実は今春、北海道新聞ふらの版で12例の建物を連載で紹介する機会をいただきました。予想していた以上に市民からの反響が大きく、我が町・郷土の歴史に対する関心の高さを確認できました。普段の生活の中で何気なくいつも見ている建物にも、まちの歴史、文化、優れた建築技術などのエッセンスがギュッと凝縮されています。私が残したいモノ。それは決してスペシャルではないけれども、私たちの日常生活の中に当たり前のようにある身近なモノです。その一つとして、今回は文化遺産、産業遺産として評価されるべき歴史的建造物を取り上げてみました。

すでに失われた建物は数多く、この調査は遅きに失した感は否めません。それでも現時点で遺された建物と建物にまつわる歴史を記録し、後世に伝える準備ができつつあると考えています。皆さんのまちにもまだまだ歴史ある建物はあるはず。まちのあゆみ、人々の営みが刻まれた古い建物や街並みをあらためて掘り起こしてみてはいかがでしょうか。

 

<富良野市博物館 澤田 健>

次回は、いしかり砂丘の風資料館の志賀健司さんの投稿です。ご期待ください!