【コラムリレー08「博物館~資料のウラ側」第30回】
北海道の歴史的建造物の保存修理が進んだ時代は、昭和後期から平成初期にかけて(1980年代後半から2000年初頭)です。これは日本の文化財保護制度が、時代とともに成熟し、歴史的建造物の価値があらためて評価された時期と重なります。史跡旧島松駅逓所もそのひとつです。
史跡旧島松駅逓所の「とっておきのヒミツ」
わたしは、文化財(建造物)保存修理計画を担当する学芸員です。ここ史跡旧島松駅逓所は、中山久蔵宅や赤毛の見本田、大輪が咲く蓮池など、どこを見ても「すばらしい!」と訪れた人を魅了する北広島市の「顔」です。ほかにも魅力的なおもしろさは、実は「見えないところ」に隠されています。
天井裏はタイムカプセル
そうは言っても誰でも見て感動するのは、完璧に整えられた建物の「顔」である全体像ではないでしょうか。でも、私たちが心躍るのは、その壁の裏側や小屋裏から分かることです。
史跡旧島松駅逓所は、昭和59年の大規模改修工事から30年以上経過しました。主屋の老朽化が進んだため、令和6年度から約2年間をかけて保存修理工事を行っています。天井材を剥がすと、約150年前に久蔵がこの島松に入地した、当初の家屋の一部が、そのまま残されている痕跡を見ることができます。この部屋から増改築の始まった証を目の当たりにしたとき、「ザワッ」と鳥肌が立った感覚は忘れることができません。それは、まるで当時の大工さんからのタイムカプセル。昭和59年の工事報告書からわかりますが、実際この目で見ると何とも言えない感覚です。そこから始まる、増改築の痕跡を見るたびに、「この時代に、久蔵の思いを汲んだ大工たちが、こんな風にこの建物を増築してきたんだなぁ…」と思うと、建物のもつ物語が、幾つも折り重なって紡いできていると思うと感慨深いです。
増改築の「痕跡」が語る人々の物語
小屋裏を覗いてみると、柱や梁には、部屋を分けたり、増築や減築した痕跡が確認できます。この増改築の痕跡は、島松駅逓所が札幌本道沿いに立地したことを考えると、人やモノの往来が頻繁となり、使い勝手に応じて部屋や廊下を少しずつ変えてきたと思われます。歴史をみると、明治4年 中山久蔵が島松(現在 北広島市)に入地し、明治10年 クラークの別れの地(boy’s be ambitious:青年よ大志を懐けの名言を残した地)となり、明治14年 明治天皇行在所となり、明治17年 久蔵が第4代 駅逓取扱人に命ぜられました。これらの歴史の渦中で、久蔵は篤農家として農事に精を出していたこともあり、とても忙しい日々を送っていたと思われます。そう考えると、札幌本道の開通から明治20年前半までが島松駅逓所は、全盛期で旅人も増え、休憩だけではなく宿泊や荷物を一時的に預かっていたのかもしれません。
職人の「隠れたサイン」を探せ!
私が一番好きな「ヒミツ」は大工さんたちがこっそりと残した「サイン」を見つけることです。小屋裏の梁に、位置を示すために墨付けをしているところや古い建築部材を再利用している部屋があります。こうした見えない部分のサインや小さな工夫は、その建物を愛し、誇りを持って仕事に取り組んだ彼らの姿を想像させてくれます。歴史的建造物は、その壁の向こう側や屋根の裏側、そして隠れた見えないところに、多くの人々の思いや、語られざる歴史が眠っている、壮大な「物語の倉庫」なのです。
みなさんが歴史的建造物を訪れる際は、ぜひ、見えないところに隠された「ヒミツ」にも思いをはせてみてください。
史跡旧島松駅逓所 所在地 北海道北広島市島松1-1(令和7年度 現在、工事中の為、見学できません)
リニューアルオープン 令和8年4月28日
<北広島市 エコミュージアムセンター 学芸員 黒田 弘子>
集まれ!北海道の学芸員 ようこそ北海道の博物館へ



