Breaking News
Home » 博物館〜資料のウラ側 » 113年の時を経て発見された資料たち

113年の時を経て発見された資料たち

【コラムリレー08「博物館?資料の裏側」第29回】

博物館網走監獄では、今年2025年の6月から耐震工事が始まりました。

今回のコラムリレーでは、現在行われている工事や過去の移築についてお話しようと思います。

まず、博物館網走監獄とは?

博物館網走監獄は、1983年の7月に開館しました。

元々は網走川の向こう岸に刑務所(監獄)がありました。しかし明治時代からの建造物は次第に老朽化していき、全面改築を行うことになった際に市民から昔の建造物を保存すべきだという声が上がりました。それらの熱意とともに財団法人を設立し、天都山の中腹に建造物を移築、または復原させて博物館を創設しました。

博物館網走監獄の誕生です。

ところで刑務所は犯罪者が収容されているので負のイメージしか無いように思えますが、なぜ網走市民は網走監獄の建物の保存を望んだのでしょうか。

答えは、網走にとっての監獄は発展のシンボルだったからです。

明治23年(1890年)に中央道路開削のため、釧路の集治監から釧路集治監網走外役所として囚人1200名と家族を連れた看守が網走の地に降り立った際には、村民が631人しかいませんでした。しかし看守の家族などが一気に移り住んできたことで商いが活発になり、徐々に網走は活性化していきました。また若い受刑者の労働力は網走の発展にも繋がりました。

さらに監獄には国費が投入されることから最新式の物が取り揃えられ、網走で電気が最初に灯ったのも、明治時代にボイラーで風呂を沸かすことができたのも網走監獄が初めてでした。網走監獄のおかげで、網走市における経済活動も活発化していったのです。

こういった経緯から、網走市にとって監獄は重要な施設となっていきました。

2025年6月から、耐震工事が始まりました

そんな市民の思いのもと創設された博物館網走監獄の建物の保存も、日々のメンテナンスだけでは補えないのが地震等の自然災害です。

そこで当館では、重要文化財の耐震工事を行うことにしました。

現在取り掛かっているのは、獄舎の「中央見張り所及び五翼放射状舎房」です。

この建物は、受刑者の手によって明治45年(1912年)に建てられ、昭和60年(1985年)に当館に移築されました。建物は名前の通り、中央の看守が控える見張り所から、手の平を広げたように放射状に五つの舎房が建てられており、見張り所に立つと舎房全体を見渡せるという画期的な建築方法でした。

図1:中央見張り所及び五翼放射状舎房。博物館網走監獄公式HPより。

今回の工事は耐震工事だけではなく、補修工事も行っています。113年前の当時の材料をできるだけそのまま使用するために、使える材料ともう古くて使えない材料を取捨選択しなくてはならないので、とても時間が掛かります。この作業は博物館を開館しながら行うので、大変な工事となっています。

工事は、まず舎房の第一舎から着手されました。古くなった野地板を撤去して新しい物と交換し、防腐剤を塗布しました。

図2:工事作業写真①。当館職員撮影。
図3:工事作業写真②当館職員撮影。
図4:撤去された野地板。筆者撮影。

今回の工事では、屋根だけではなく房の工事も行っています。

その際に、房の一室から五寸釘が出てきました。

図5:工事中に発見された五寸釘。筆者撮影。

五寸釘といえば、網走監獄の有名人に五寸釘寅吉という人がいます。彼は強盗を働いた時、憲兵から逃げている途中で五寸釘の突き出た板を踏み抜いてしまいましたが、それでも12㎞走ったことからその異名が付けられました。網走監獄にも収監されましたが、その頃には模範囚として過ごしていたといいます。

今回の工事で出てきた野地板や五寸釘は、今後当館で展示する予定です。

113年の時を経て発見された資料から、学べることはきっと多いと思います。

(博物館網走監獄 学芸員 先崎紗矢華)