幕末の最強軍艦・開陽が江差港に眠る!150年の時を超え最新調査でその姿がよみがえる。新進気鋭の水中考古学者が語る開陽の今。

講演概要
- 日時 令和7年3月18日(火曜日)18時30分〜19時30分
- 場所 厚沢部町図書館視聴覚室
- 講師 小峰彩椰氏(水中考古学者/江差町教育委員会学芸員)
- 内容 明治元年、箱館戦争のさなか、当時最強の軍艦だった開陽は、江差港内で座礁・沈没しました。昭和50年から始まった水中調査の際にもその船体は海中保管され、いまなお、江差港内に沈んでいます。近年、水中考古学の専門家として開陽丸の船体調査やモニタリングを行ってきた講師から、現在の開陽やこれまでの調査で明らかになったことを学びます。
講師紹介
小峰彩椰(こみねさや)
東海大学で考古学を学ぶ。専門は水中考古学。令和3年から江差町教育委員会で勤務し、開陽の調査に従事する。海底に沈んだ開陽の姿を解明するべく自らダイビングを行うともに、水中ドローンや3次元計測などの最新機器も活用する。

開陽とは
開陽は、文久2年(1862)にオランダに発注されました。「オランダ海軍にも開陽に勝る軍艦はない」と称されるほど、当時最新鋭の軍艦でした。
江戸城無血開城後に旧幕府陸軍とともに蝦夷地へ向かいますが、明治元年11月15日、江差港内で座礁、沈没してしまいました。

開陽を失った旧幕府海軍
開陽丸を失った旧幕府軍は急激に海軍力を落とします。明治2年の新政府軍の蝦夷地奪還作戦では、しばしば新政府陸軍を苦しめた旧幕府軍ですが、新政府海軍の艦砲射撃に耐えきれず、矢不来(現北斗市)方面から撤退を余儀なくされます。箱館湾海戦では旧幕府海軍の回天、播龍が奮戦し、新政府軍の朝陽を撃沈しますが、数でまさる新政府軍に圧倒され、旧幕府海軍は壊滅します。一方の新政府軍も海軍力は充実しておらず、開陽に対抗できるのはアメリカから納品されたばかりの甲鉄艦のみという状況でしたから、仮に開陽が健全だったなら、箱館戦争はさらに長引いたはずです。

海軍力を失った旧幕府軍は次々と押し寄せる新政府軍を押し止められず、5月17日に五稜郭を明け渡しました。開陽が沈没したことが箱館での戦闘が短期間で決着し、道南の住民の命や財産を守ることになったとすれば皮肉な話と言えるかもしれません。
水中考古学と開陽
開陽はこれまで何度も遺物の引揚げが行われてきました。古くは沈没直後の開陽丸から旧幕府軍が武器を引き揚げようとした記録が残されています。その後ももっぱら金属製品を目的とした引揚げが何度も行われ、大砲や碇なども発見されたようですが、戦時中の金属回収で姿を消してしまったといわれています。
最初の本格的な調査は昭和44年の江差港拡張工事で、初めての潜水調査が行われました。その後、江差町の働きかけにより文化庁や北海道教育委員会の関与が実現し、昭和50年から本格的な調査が実施されました。日本初の本格的な水中考古学の始まりでした。海底の潜水調査は国内では例がなく、海外の調査例を参考にしながら試行錯誤が続けられました。約10年間の発掘調査の結果、約3万3000点の遺物が引き揚げられました。発見された遺物のうち大型船体については、引き揚げ後の処理や保管が困難であることから、海底保存が選択されました。海底の環境の方が劣化の進行が食い止められるとの判断でした。船体を、フナクイムシやキクイムシなどによる食害から守るために、海中生物が嫌う銅製の網で被覆しました。こうして、開陽はの船体は再び海中で眠りについたのでした。
