Breaking News
Home » 学芸員のお仕事 » ニタイ・トを作る!~博物館の誕生と学芸員のお仕事~【コラムリレー07 第12回】

ニタイ・トを作る!~博物館の誕生と学芸員のお仕事~【コラムリレー07 第12回】

はじめに

 学芸員のお仕事、一般的にはあまりよく知られていないのではないでしょうか?博物館には受付の人がいて、時折特別な展示やイベント事業が行われている・・・といった印象が強いのかも知れません。

博物館施設では自治体により博物館に関する条例や規則などを定めており、その中で業務が定められています。標茶町博物館ニタイ・トでは「調査研究」「収集保管」「展示公開」「普及教育」に分類されており、これらをひっくるめて“学芸業務”と呼ぶこともあります。実際には施設管理など学芸業務以外にも様々な業務を担当していることが多く、「学芸員は雑芸員」とも呼ばれます。主に配置職員数が少ない事に起因しているのですが、1979年に発行された倉田公裕著『博物館学』の序文にも「雑芸員」について触れており、40年以上に亘り状況にあまり変化がないことに多少の眩暈が感じます。しかし博物館に関わる多様な業務を把握し、計画立案から終了に至るまでほぼ全てに携わる事で一連の流れを肌で感じる事ができる・・・大変な反面、充実感のあるお仕事です。

2018年、標茶町では「標茶町郷土館」から別の施設を改装転用し、「標茶町博物館ニタイ・ト」として新規開館しました。その際大きく関わる機会をいただく事ができました。今回学芸員のお仕事の中でも稀なお仕事、博物館の立上げについてご紹介したいと思います。

博物館の構想

 標茶町教育委員会では1996年に「博物館整備基本構想」が作られました。それは現博物館の前身、標茶町郷土館を博物館母体として改修し、その裏手に施設を増設する大掛かりな計画でした。発案され始めた頃は財政的余裕があった時期。私が着任した2001年時点で、既に厳しい状況に変化していました。しかし当時の上司からは、「いつ話が急転するかわからない。博物館の展示構想も含め基本プランや考え方は、常に持っておいて欲しい。少なくとも頭の中には纏めていった方が良い。」と言われ、以降各地の博物館見学の際、自分が博物館を作る際に取り入れられるかという視点で見るようになりました。

 あれから15年が経ち・・・、2015年に標茶町郷土館に隣接する食材供給施設(標茶町で建設しオーベルジュとして委託営業していた)が閉館となり再活用案を模索する中、降ってわいたように博物館への転用案が生まれました。すぐに指示が飛び、内部間取りの変更案をすぐに作成。関係者間で転用の可否について協議を始めました。食材供給施設は標茶町郷土館に隣接している事から、所在地を大きな変更する必要がなく、デザイン性に富んだ建物は魅力的。率直に博物館として相応しいと思いました。以降建物全体の間取り、常設展示プラン、外観や内装の色調など様々な部分の基本案を練り、様々な方々の意見を取り入れながら進めました。

改装工事中の様子。写真奥のブルーシートは、シロアリ被害により外壁を剥しているため。この建物自体1997年に建てられており、部分的に老朽化が進んでいた。 

新しい博物館のこだわり

今回は館内に新しい試みを幾つか試していますが、個人的にこだわったのは見学者の視点です。私自身見学した他博物館を思い出すと、空間に調和し強調された展示物の情景が浮かびました。「強い印象」というのは博物館にはとても大切であり、その博物館のイメージに繋がります。標茶町博物館ニタイ・トでは、当館の持つ最も印象的な展示物(力のある資料と呼んでいました)、“翼を広げたシマフクロウはく製”を入館の際に必ず目に入る位置に配置し、アイキャッチの役割を持たせました。また常設展示室では通路を直角に曲がった先は視界の拡がる空間とし、印象的な資料を配置する事で目線を引くようにしました。これらは新館として立ち上げる際には基本的な展示手法の一つですが、建築構造上の制約が生まれる改修工事で自由に展示案通り組み上げられたのは、設計段階から深く関わり早い段階から展示配置を考慮し進める機会を頂いていたことが大きく働きました。

先にご紹介した工事中写真を同一場所で撮影。「標茶町のアイヌ文化」展示室となっている。この展示室のアイキャッチとして、カムイノミシタラぺ(花ござ)を配置した。 

おわりに

標茶町博物館ニタイ・ト開館までには様々な人の考えがあり、実際には大きな紆余曲折がありました。当初2016年の開館を目指しましたが、結果的には遅れて開館となりました。しかしその間に沢山のご意見や博物館へのご理解をいただき、結果的には計画全体についてブラッシュアップできる時間が生まれたこともとても良かったと感じました。

博物館設置は町にとって大事業であり、多くの方々の力が合わさり誕生しました。その立ち上げに微力ながらも携わるタイミングを得た事は幸運だったと思っています。(標茶町博物館学芸係長 坪岡 始)