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医者はどこへ行った? 慣れし故郷を放たれて【コラムリレー第17回】

北海道150年と銘打ってあれこれ話題になった2018年も早いものであとひと月を残すばかりとなりました。年月の流れの早さを感じます。
ちなみに今年、私が故郷で過ごした期間と北海道に渡ってからの期間がほぼ等しくなりました。歳を感じますがどうでもいいですかそうですか。

さて、道南地方は北海道の中でも比較的早い時期に和人が渡り住み着き、中世の知内には道南十二館の一つ、脇本館が築かれました。近世には主に和人地となっていますが、漁業を営む者や、村中(現在の元町)が宿場町としてあったほかは集落はまばらでした。
本格的に人が入ってくるのは明治時代になってのことです。明治14年、山田慎が開拓使から土地の払い下げを受け、大規模な農場経営を始めます。郷里の福井県を中心に人を集め、土地を拓いて畑にしていきました。漁業では函館の藤野文蔵が涌元で鮪漁を行い、賑わいをみせます。

人が増えるとそれに伴って必要となる職業があります。明治11年の知内村住人の職業として、耕作・漁師・樵夫のほかにも、大工・豆腐屋・産婆・和洗張などの名前がみられます。近隣の木古内村から茂辺地村にかけては荒物・菓子屋・桶師・筆学、そして医者も2人います(『新知内町史』)。
では知内の医者はというと、新潟市の五十嵐泰安という人物が新潟市から頃内(今の元町の一部)に移住し医業を始めた、と伝わっています。前述の一覧では知内村に医者はおらず、最初の医者ということになるのですが、他にはよくわかっていませんでした。

そこへ新潟の方から問い合わせがありました。
『新知内町史』に名前の出ている五十嵐泰安は江戸時代の新潟の画家、五十嵐淩明の子孫ではないか、と。

五十嵐浚明は元禄13(1700)年新潟町の商家に生まれ、30歳の時に江戸や京で絵や経学を学び、独自の画境で名声を得ます。また、その子孫も詩書画に優れていました。
泰安は浚明の玄孫にあたり、祖父・父は医師でもありました。当人も医者として勤めていましたが、ある時妻子を引き連れ北海道に渡ります。そしてそれ以降の足取りは不明、というのです。そして渡った年も、明治23年前後のようだがはっきりしない、と。

はたしてこの泰安は五十嵐浚明の子孫なのか。問い合わせの元は、明治22年発行の『日本医籍』にある「知内村 五十嵐泰安」との記載です。別の医師人録を探すと明治31年には名前があり、42年には別の人になっています。出生地や医師免許の記述と合わせると子孫で間違いなさそうです。ところが、泰安が来たのが明治11年、と書かれた本もあるのです。おそらく誤植か転記ミスだと思うのですが…

当時の病院事情について、明治10年以降官立病院を母体に公立病院が設置され、14年時点で函館支庁管内に15の病院と1出張所がありました。そして16年3月に木古内札苅知内連合公立病院が設立されています。やはり知内村内には医師はいないように思えます。

泰安がいた年代はおおよそつかめましたが、来た年はわからないまま。で、ふと開いた郷土史の本に「泰安居士ハ五十嵐家ノ六代目明治二十一年新潟市(中略)医事ヲ業ト為ス…」という墓碑銘の記事が…見つかる時はそんなもんですよね。読んだことあったのに…

五十嵐泰安碑文(白黒反転・読みにくくてスミマセン)

五十嵐浚明の子孫は、知内で代を重ねているということが判明しました。画家でも医者でもないのですが、泰安から数えて六代ほど。

ただ、なぜ知内だったのかまでは残念ながらわかりません。たまたま着いたのか、山田農場の関係で同郷の縁者がいて頼ったのか、もしかすると言いにくい事情があった可能性も否定できません。「先祖はどこ?」「俺のじいさん(入植者)がさぁ」という会話は道外の人からして「北海道っぽいなあ」と思うそうです。それは「北海道」の成り立ちによるのと、150年というのは近くもなく遠い昔でもない、話のタネににちょうどいい年月だからなのかもしれません。

(知内町郷土資料館 学芸員 竹田聡)