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故郷へ還ったアイヌ遺骨と副葬品は何を語るか?【コラムリレー第13回】

皆さんは、自分のお祖父さんや先祖の遺骨が、よくわからないうちにお墓から持ち出され、研究材料として大学に保管されていると知ったら、どんな気持ちになるでしょうか?悲しい気持ちになるのではありませんか?一刻も早く故郷に戻して、きちんとお墓で眠らせて上げたいと考えるのではないでしょうか?

町営墓地に再埋葬された先祖の遺骨に祈りを捧げるアイヌの人々(2018年8月、浦幌墓園)

十勝平野の南部、十勝川の河口に近い場所に、浦幌町の愛牛地区があります。1934(昭和9)年の秋、ここにあったアイヌ墓地で多数の遺骨が掘り出され、研究用に持ち去られるという事件がありました。

その年、札幌の北海道帝国大学(当時)医学部の教授が、浦幌へやってきました。教授は、頭蓋骨などの形態を比較することによって、アイヌ民族の人種としての特徴を明らかにしようと考えていました。浦幌だけでなく、北海道全土やサハリン(樺太)などでも、お墓が掘り返されました。

故郷へ還った遺骨を慰霊する儀式イチャルパ(2018年8月、浦幌町浜厚内)

そうして掘り出された遺骨は大学に集められ、以後80年以上の永きにわたり、「研究材料」として保管されてきたのです。一方で、そこではアイヌの人々の気持ちは、置き去りにされていました。

残念ながら、元のお墓は既にありません。十勝川の河川改修で、場所自体が消えてしまいました。しかし、故郷の土地に戻してあげる事は可能です。現代の浦幌に暮らすアイヌの人々はそう考え、「自分達の祖先にあたる人々の骨を返して欲しい」と、大学に求めてきました。

再埋葬された墓地に建つアイヌ式の墓標と祈る人々(2017年8月、浦幌墓園)

そうして2017(平成29)年8月、ついに北海道大学から、約80年ぶりに遺骨が浦幌へ還ってきました。その数は実に63体にものぼります。つづく2018(平成30)年8月にも、14体の遺骨が還ってきました。

町営墓地の一角が用意され、木箱に入った遺骨が再埋葬されました。墓地には、この日のために準備されたアイヌ式の墓標も建てられました。アイヌの伝統にもとづき、神聖な木とされるハシドイで作られています。慰霊の儀式であるイチャルパも執り行われました。この日のため、地元の人達は伝統的な方法で一生懸命ガマを編み、長い花ゴザをつくりました。お祈りのためのさまざまな道具も、多くの人達との協力で用意することができました。

返還後、博物館へ寄贈された副葬品の一部(浦幌町立博物館)

遺骨と一緒に「副葬品」も還ってきました。お墓に一緒に埋められていた品々です。本来は新しいお墓へ一緒に埋めるべきものですが、浦幌アイヌ協会の人々のご意向により、浦幌町立博物館へ寄贈されました。民族学や文化人類学の研究に用いると共に、このような悲しい出来事が、かつて浦幌、そして北海道中で起きていた事実を後世に伝えていくため、博物館がお預かりすることにしました。

展示室の一角で公開した副葬品。研究用に遺骨が持ち去られた歴史を紹介している(浦幌町立博物館)

北海道150年。そこには、多くの辛く悲しい出来事も含まれています。150年前よりもっと以前から、いろいろな場面で虐げられてきたアイヌの人々の歴史の延長線上に、遺骨持ち去りの事件もあると考えられます。

遺骨に限らず、残念ながら博物館や研究者が、そうした悲しい歴史の片棒を担いでいた事もあるのです。「博物館の歴史は略奪の歴史でもあった」と言われるのはこのためです。こうした歴史を通じて、アイヌを含む先住民族の人々の中には、博物館やそこで働く研究者に対して、良いイメージを持たない人もいます。これもまた、とても悲しい事でしょう。

一方、人骨を対象とした研究の学術的な意義も、多々存在するのは事実です。大切なことは、研究の過程において、人々の尊厳を大切にする事ではないでしょうか?

これからの150年、モノを集め、後世に伝える使命を持つ私たち博物館と学芸員にこそ、その姿勢が厳しく問われているのです。

(浦幌町立博物館 学芸員 持田 誠)