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消えたシカと残ったタヌキ【コラムリレー第11回】

1 はじめに

近代における奥尻島の本格的な開発は、おおよそ150年前の明治初年に、福岡藩が分割統治した頃に歴史の区切りをみつけることが出来ます。かつては季節的な漁の場であった島も、徐々に定住人口が増えていきました

一方、動物界ではどうでしょうか。約150年前に島にどんな動物が住んでいたのか、正確な記録はありませんが、人の手が加わった二つの事例から、島の動物の数奇な運命をご紹介します。

 

2 シカの悲哀

現在、奥尻島にシカは生息していません。それでも、北海道指定史跡の「青苗砂丘遺跡」からはシカの骨で作った製品が発見されているので、かつては住んでいた可能性があります。

その後、1000年ほど経過した明治11年(1878)になって、当時の開拓使が産業振興を目的に、数頭のシカを奥尻の野原に放しました。保護のためか、島にいた犬が対岸の熊石(現:八雲町熊石)に放り出されたといいます。放たれたシカは順調に頭数を増やしていき、10数年で1000頭以上になりました。畑を荒らすなどして、次第に島民の生活をおびやかすようになります。ちょうどこの頃、不漁続きで思うように漁獲高が伸びず、島民は畑作へ力を入れていたことも、事態を悪化させました。

奥尻に生息していたシカの角(稲穂ふれあい研修センター展示品)

 

一方この頃、北海道本島では個体数の減少から禁猟政策がとられ、シカ猟は禁止されていました。本島での積極的な保護策の結果、奥尻島では無秩序に個体数だけがどんどん増えていきました。禁を破る密猟が横行したといいます。

明治33年(1900)になって、北海道でのシカ猟が解禁され、たびたび解禁の請願を出していた島内では、一挙に狩猟が進んでいきました。毎年のらん獲により、同40年頃にはかなり数が減ってしまったようです。

このように島のシカの減少は早く、最後は海を渡って逃げていく様子が目撃されていたことを、島のお年寄りは話してくれます。それは、シカが一列になって泳ぎ、疲れればあごを前のシカの尻に乗せて、先頭をかわるがわる交代しながら対岸へ逃れていったということです。こうして奥尻のシカは絶滅します。人間が生み出したシカの悲哀です。

上ノ国町で目撃された泳ぐシカ(上ノ国町役場提供)

 

3 タヌキの園

現在、島にはタヌキが生息していて、野山だけではなく、民家の周辺にも降りてくるようになっています。そもそもこのタヌキは外から島に持ち込まれた生き物なのです。

では、いつ、何のために持ち込まれたのか。町内には明確な記録は残っていませんでしたが、「銃後のたより」という本に面白い記述がありました。これはかつて日本が戦争をしていた頃(昭和12年~昭和20年)に奥尻島出身の兵隊あてに送っていた郷土からのお便りをまとめた本で、地元奥尻のローカルな話題が多く載っています。

昭和15年(1940)5月の記事に「狐の盛況に刺激されてか狸の熱も出て来ました。(中略)各狸のお宿では月夜の晩になると集まって腹鼓を打って宴会をやっているそうです」とあります。当時、軍服に使う毛皮の需要が急速に高まっており、島内でキツネやタヌキの養殖が盛んだったのです。また、「K養狸場では四頭で、ストライキを起こして脱走したので…」とあり、タヌキが野山に逃げ出すこともたびたびあったようです。

その後、昭和20年2月の記事では「奥尻の山に狸が繁殖したこと大したもんです。月夜の晩になると、あちらこちらの峰でポンポコポンポコと腹鼓の音がして、正に狸の島になりそうです」とあり、すでに相当な数が島内に生息していたことが判ります。

現在、天敵のいない彼らは道路や民家周辺にひんぱんに出没し、徐々に畑を荒らす被害も聞かれています。国内外来種でもある島のタヌキ、可愛らしいだけではないのです。

島のタヌキ(奥尻島観光協会提供)

〈 奥尻町教育委員会事務局 学芸員 稲垣森太〉