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北限のブナ林の150年:伐採の50年と再生の100年【コラムリレー第7回】

日本のブナ林は、現在、長万部、黒松内、寿都を結んだ黒松内低地帯付近が北限です。しかし、ブナの北限はずっと黒松内のあたりにあったわけではなく、地球の気候変動に対応して南北に移動してきました。幕別町忠類地区の約12万年前の地層から見つかったナウマンゾウの化石と一緒にブナの種子の化石も出ていることから、一回前の間氷期にはブナの分布北限は現在よりかなり北東にあったと考えられます。最終氷期(ヴュルム氷期)の最寒冷期(約2万年前)には、ブナの北限は現在の新潟県や福島県のあたりまで南下していたと考えられています。その後、地球が再度暖まり始め、約1万年前からブナは北上を開始し、約6000年前に北海道に再上陸し約1000年前に現在の北限に到達したと考えられています。

現在、渡島半島の先端から黒松内岳付近まで、ほぼ連続的に分布しているブナ林は、黒松内低地帯に入ると点在するようになります。2013年に、ニセコ山系でブナの小さな集団が見つかりました。それまで最北と考えられていた蘭越町のツバメの沢ブナ林から尻別川を越えて10km以上離れた場所でした。その集団の最大個体の樹齢が約130歳。北海道が命名された少し後に鳥か動物が種を運び芽生え、定着したブナが種を落とし集団になったと考えられます。この最大のブナが芽生えたころ、ブナがどこまでどのように分布していたのかは現在のブナの分布状況から推測することはできません。もしかしたらニセコ山系までブナ林が連続的に分布していたのに、伐採により現在の点在する様子になったのかもしれないのです。

 

松浦武四郎が東蝦夷日誌(1857年)の中で、「ブナノキタイ、これぶな多きがゆえ名づく。後ろウタサイという山有り。」と書いた頃は、和人が開拓する前なので、ブナの原生林が広がっていたのでしょう。その後、田中壌(明治時代の林業技術者)が大日本山林会報173(1897年)に「本帯の定在樹種なる「ブナ」の歌棄郡及長萬部間に於いて突然跡を絶ちしは其何の関係に由ることを知る能はず」という記述で、初めて黒松内低地帯付近がブナの北限であるということ世に表しました。この1897年という年は北海道のニシンの漁獲量のピークの年。つまりこの頃は、すでにブナ林がニシンを炊くための燃料として伐られていたと考えられます。この伐採の結果黒松内周辺がどのような状況になってしまったかを知ることのできる資料があります。

1923年(大正12年)、札幌農学校の林学科の初代教授であった新島善直が、国の天然記念物の調査員として黒松内の歌才ブナ林を訪れ、書いた報告書には「周囲はほとんど全く開墾し尽くされたる土地中にかくのごときぶなの原始林を残留せるは奇蹟というべし」という記述があります。「ほとんど全く開墾し尽された」というかなり強調された表現から、当時の破壊のあり様が容易に想像できます。このように、約850年間原生状態であった北限のブナ林は北海道命名から50年あまりで、ほとんど全く伐採し尽されてしまったのでした。

新島善直の尽力により、奇跡的に残っていた歌才ブナ林は1928年(昭和3年)に国の天然記念物に指定され、今年90年目になります。当時、はげ山であったであろう周囲は現在、奇跡的に残されたブナ林から種が運ばれ、約90歳の若いブナの2次林が育ってきています。原生林の状態に戻るにはまだ数百年かかると思いますが、歌才ブナ林の周辺に限らず黒松内低地帯のいたるところでブナ林が再生しつつあります。

北限のブナ林にとっての150年は、最初の50年は伐採され、後の100年は再生してきた150年と言えます。

(黒松内町ブナセンター 学芸員 齋藤均)