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150年前に築かれた松前藩の謎のお城【コラムリレー第5回】

明治元年(1868)9月1日、松前藩は突然新しい城郭の築城を始めます。新しい城郭は「館城」と名づけられました。築城に至る松前藩内での意思決定のプロセスがほとんどわかっておらず、歴史的な評価の定まりにくいお城でもありました。

海沿いの松前城から内陸の館城へ

 

館城は新築された松前城

厚沢部町教育委員会がおこなったのべ11ヵ年にわたる調査によって、館城の実態が明らかにされました。
調査の結果、館城は次のような特徴をもつお城であることがわかりました。

  1. 松前城と同じ規模で平面形状もよく似ること
  2. 堀や土塁、柵などは簡素ではあるものの、近世城郭としてふさわしい守りの工夫が随所に見られること
  3. 松前藩主の居所や政治の中心と思われる建物があったこと

館城は新築された松前城といっても過言ではありません。

農業開発に特化した大改革

これに加えて、館城が築かれた厚沢部川流域では安政年間頃(1850年代後半)から松前藩による農業開発が進行していたことが新たに発見された資料(江差町郷土資料館所蔵「脇家文書」)から明らかになりました。もともと館村には開墾役所があったという言い伝えがありましたが、こうした伝承が裏付けられたと言えます。

つまり、館城とは、松前藩が藩経営の主軸を農業開発に移すべく安政年間から取り組んできた改革の集大成であったと言えます。「満を持して」と言えるかどうかはわかりませんが、広い耕地を得ることができない松前から、農業に適した厚沢部川の中流域に藩の中枢を移す、ということは極めて自然なことでした。

発見された館城御殿の礎石

開拓と植民地北海道の誕生

さて、近代の北海道のキーワードが「開拓」であったことは疑いのないことです。「北海道開拓使」の設置(1869)、「屯田制」の導入(1874)を契機に北海道内陸部の農業開発が進行していきます。札幌、旭川、帯広など内陸に今も続く大都市の基盤が形成されていきます。

「内陸部の農業開発」は近代初期の北海道で進行した特徴的な現象の一つです。近世蝦夷地が原則的に幕藩体制の外に置かれており、「開発」の対象外だったのに対して、近代北海道はわが国で最も潤沢な開発経費が投下される地域の一つとなりました。「外国」から「内国」へ、植民地化される蝦夷地が北海道150年の本質であると私は考えています。

館城と近代北海道の都市

すでに述べたように、館城は次のような特徴を持っています。

  1. 農業開発のために
  2. 内陸部(厚沢部川中流域)に築かれた
  3. 新しい松前藩の拠点

その立地は近代北海道で建設が進んだ内陸部の大都市と極めて似通っています。「農業開発」というそもそもの動機づけが同じであるのですから、立地が似るのは当然です。

時代を先取りした松前藩

私が意外に思うのは、旧守的なイメージの強い松前藩が、明治維新の10年も前から近代北海道を先取りするような政策を進めていたことです。
冒頭で館城が「突然」築かれたとしましたが、すで10年もの時間をかけて藩の改革に取り組んできた松前藩にとって館城の築城は、現代の私たちが思うほど唐突なことではなく、それまでの政策の延長として必然だったのかもしれません。館城築城が必然と感じられない私たちの感覚の背後には、近代北海道成立前夜に進行していた未知の歴史がまだまだあったこと示しているように思えてなりません。

厚沢部町 石井淳平