明治時代の北海道には、本州各地から移住者が集まってきました。故郷を離れ、見知らぬ土地での生活は、わたしたちの想像をはるかに超える困難を伴ったことと思います。そうした新天地での思いは、さまざまな形となり、それを今、わたしたちは見て知り学ぶことができます。
利尻島も、明治以降の移住者、とくにニシン漁を担う人たちにより歴史を重ねてきたまちの1つです。島の各所に集落がつくられていくなかで、移住元の割合がちがうため、言葉や習俗、食文化、民俗芸能などそれぞれに特色があります。移住元としては、青森や秋田を主体に、富山や新潟、石川、福井、果ては鳥取まで、日本海側を中心とした地域があげられます。それらは出身別に「~衆」とよばれ、たとえば富山は越中衆、鳥取は因幡衆などとよばれました。
では、島内にのこる移住の痕跡をいくつか見ていきましょう。
移住元の大半を占める青森や秋田の名残は、石碑から読みとれます。青森出身者による庚申碑が10か所、秋田出身者による太平山三吉神社碑が5か所あり、かつては講という信者の集まりも組織されるなど結びつきの強いものだったようです。
島の南東部にある沼浦地区には、秋田ゆかりの1897(明治30)年建立の神社や狛犬、石灯篭があり、参道入口には三吉神社碑が建っています。
因幡衆が住みついたのは清川地区で、1902(明治35)年に美保神社を遷宮し、その後たくさんとれたタラバガニの缶詰製造に携わりました。また、同じく長浜地区には、鳥取の代表的な芸能である麒麟獅子舞が伝わり、現在も舞われています。
富山から南浜地区に伝えられた南浜獅子神楽は、宗谷地方に伝わる唯一の越中獅子舞であり、地域の大人や子どもたちによって今も大切に受け継がれています。その思いは、今年の8月5日に開催される北海道150年記念式典のなかの子ども民俗芸能全道大会への出場という1つのかたちになりました。
各地からの移住者の増加は、物流の発展を促し、日本海を行き来していた北前船によって、島からはニシン粕や昆布などが運ばれ、一方島には、米や味噌、酢、酒などが運ばれました。島にもたらされた物資の名残りは、基礎石や墓石などに使われた福井の笏谷石、尾道(広島)の酢徳利や越後(新潟)の焼酎徳利(松郷屋焼)、石見(島根)のはんど(水がめ)などで知ることができます。
また、移住者の拠りどころであった宗教にも地域的特色がみられます。旧鬼脇村の移住元と宗派の関係を調査してみると、禅宗は、秋田や鳥取、青森、北海道が多いのに対し、浄土真宗は、福井、石川、富山、新潟など北陸地方に多いということがわかっています。
ところで、小さな地域にいろいろな場所から移住した結果、冗談みたいなエピソードがあります。まだまだ地方色が色濃かったむかしは、複数の地区の子どもが1つの学校に通っていましたが、地区によって移住元の方言が異なるためお互いの言葉が通じないということもあったそうです。
このように、海を通じて船で運ばれた人やモノ、文化がダイレクトに伝わった利尻島。かたちのあるものの保存も大切ですが、かたちのない民俗芸能や言葉、習俗を伝え継ぐのは並大抵のことではありません。北海道と命名されてから150年、今やネット社会の発達は、離島にまでも都市と変わらない便利さと画一性をもたらしました。便利さは社会の構造や人びとの心理にも影響を与えています。人口減少・地方創生と声高に叫ばれる昨今、歴史研究に携わる者として、これからの50年・100年先を見据えた離島のすがたが求められているのではないかと感じているところです。
<利尻富士町教育委員会 学芸係長 山谷文人>