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幕末の志士・松浦武四郎の生涯を探る【コラムリレー第25回】

明治新政府が「蝦夷地」を「北海道」と命名してから150年目を迎える2018年、北海道では、過去を見つめ直し、豊かな未来を展望する機会とするべく、「北海道150年事業」が行われる予定です。そのキーマンとして、松浦武四郎(1818-1888)が挙げられています。

サハリン(樺太)を踏査する武四郎(『北蝦夷余誌』より、北海道大学附属図書館)

『蝦夷訓蒙図彙』巻の壱(松浦武四郎記念館)

武四郎は、1818年、伊勢国一志郡須川村(現・三重県松阪市小野江町)の郷士・松浦家の第4子として生まれました。幼い頃から旅に憧れ、青年期には、北は東北から南は九州まで、日本中を旅して回りました。26歳の頃、長崎の町名主からロシア南下の危機について聞き、蝦夷地に強い関心を抱きます。そして、1845~58年にかけて、一介の志士として3回、幕府に雇われた身分で3回、計6回にわたって蝦夷地を踏査し、数々の紀行文や地図をまとめました。また、踏査ではアイヌ民族の助けを借り、親しく交流する中で、アイヌ文化への理解を深め、彼らを悲惨な境遇に追いやった松前藩や場所請負制(特権的な商人が、松前藩から、運上金の上納と引きかえに蝦夷地各「場所」の経営を任された制度)を厳しく批判しています。

道名の提案書の下書き(松浦武四郎記念館)

維新後、新政府は、蝦夷地「開拓」を進めるにあたり、“蝦夷通”として知られていた武四郎に期待し、役人として登用します。1869年には、武四郎の提案をふまえ、蝦夷地を「北海道」と改称し、道内に、石狩国石狩郡のように、11の国と86の郡を置きました。しかし、武四郎は、新政府の下でも、場所請負制の悪弊が一掃されないことに失望し、翌年、辞表を提出して職を辞しました。

そんな北海道との関わりで注目されることが多い武四郎ですが、実はさまざまな「顔」があります。

幕末、アメリカやロシアが幕府に開国を求めた「黒船来航」の際には、長州藩の吉田松陰といった尊王攘夷派の志士たちと交流し、精力的に黒船情報の収集と発信に努めるなど、蝦夷地ネタに限らない“情報通”としても知られていました。

河鍋暁斎筆「武四郎涅槃図」(松浦武四郎記念館)

新政府の役人を退職後、最晩年まで旅への情熱は衰えず、自身の信仰や古物(書画骨董品)の収集といった動機に導かれ、毎年のように主に西日本へ2~3か月ほどの旅を繰り返しています。その集大成として、1886年には、寺社の古材を利用した書斎「一畳敷」の建築、自ら集めた古物を配した「武四郎涅槃図」の制作を行っています。この分野でも、やはり、当代随一の知名度がありました。

武四郎65歳の肖像(松浦武四郎記念館)

筆者は、数年前から、松浦武四郎記念館(三重県松阪市)などと共同で、武四郎の生涯を幅広い視点で掘り下げるために、関係資料の調査・研究を進めてきました。

まとまったものに松浦武四郎記念館所蔵の資料群があります。東京と三重の子孫宅に残されてきた記録類などで、現在、その大部分が国の重要文化財に指定されています。また、彼の多面的な活動とそれを支えた幅広い交友関係を反映し、宇和島伊達文化保存会(愛媛県宇和島市/宇和島藩伊達家の資料群)など、関連資料は各地に所在しています。近年では、静嘉堂文庫(東京都世田谷区)に、肖像写真に写る大首飾りを含む、武四郎収集の古物が大量に残されていることが判明し、話題を呼びました。

北海道命名150年目にあたる2018年、武四郎は生誕200年を迎えます。この節目に、北海道博物館では、武四郎の生涯をふりかえる特別展の開催を予定しています。

〈北海道博物館 学芸員 三浦泰之〉