「あなたのお名前なんて・・・」。昭和の歌手トニー谷の名調子です。
こんな歌詞を口ずさみながら、というのは冗談ですが、図鑑や検索表を片手に実体双眼顕微鏡を覗き、北見に生息する小さな虫の名前調べ(同定作業)をしています。たかが北見の昆虫ですが、何時間、何年も調べても名前が分らず、専門の研究者に依頼しても「科目までしか分かりません」と言われることもあるほどです。
北網圏北見文化センターの博物館の展示テーマは「常呂川・無加川流域の人と自然の営み」で、私の仕事は、同流域の昆虫類を中心に生物全般の収集、整理保管や展示等です。昆虫類の同定作業もその一つで、地域の生物目録、いわば住民基本台帳の整理です。
生き物たちも自らの名前や居住を申告に来てくれれば助かるのですが、現状ではヒト種が代理で住民台帳に登録するよりほかありません。センターが開設された昭和59年、同流域で生息が確認されていた昆虫類は約357種類でしたが、現在は約10倍の約3,022種まで増えました。
ひっそりと生きている昆虫たちも、ヒトに迷惑をかけたときだけは新聞やテレビに取り上げられて大害虫と騒がれます。
印象に残るのは、平成4年のケバエ大発生です。壁や洗濯物に黒い虫が群がり、「血を吸うのか」「病原菌を媒介するのでは」と市役所に市民からの電話が相次ぎました。徹夜で同定した結果、ケバエの一種(学名Bibio deceptus Hardy et Takahashi,1960)であることが判明しました。周期的?に大発生し、シーツや白壁など白いものに集まる習性があるので不快感を与えますが、健康被害を起こすものではありませんでした。
一般市民に説明するには和名が必要だと思い、学名をつけたTakahashi氏に「エゾアシブトケバエ」と命名してもらいました。ところが、これを報道機関に発表したところ、関係する学会から「学会として既に『フタバアシブトケバエ』と命名している」との情報が上がってきました。結局、両方の命名が採用されて和名が「フタバアシブトケバエ(エゾアシブトケバエ)」になるという、思い出深いエピソードとなりました。
次に、平成8年に北見市内で発生した、スズメバチによる死亡事故です。生物の専門家として対策を求められました。そのころ北見では、スズメバチのように縞模様のハチは全て「縞蜂」と呼ばれていましたが、種名を特定できないことには対策を立てられません。事故を起こしたハチの個体を提供してもらい、再び徹夜の同定作業の結果、シダクロスズメバチであることを突き止めました。さらに、スズメバチの仲間を精力的に採集して標本を作成し、保健所と協力して安全対策を研究し、対応策を全市に周知しました。
安全、安心な市民生活を守るためには、普段から地域の自然の情報をまとめ、市民に対応できる体制が必要なのです。
また、キタミアツモリソウやキタミナミシャクのように北見地方だけで見られる種の存在は、地域の自然の成り立ちや特徴を物語る郷土学習において大切な役割を担います。時には新種が見つかり、エゾアカアシコメツキ( Ampedus(Ampedus) fagi Kitami Kishii)のように学名に「kitami」の名前がつけば、世界規模で地域名が発信され、子供たちに学術への夢を伝えることにもなります。
現在、地域の生物目録のデジタル化を進めています。完成すれば、北海道大学博物館や国立科学博物館が窓口となっている「地球規模生物多様性情報機構日本ノード(JBIF)」に参加でき、ホームページ上で全世界の利用者へ発信することができます。地方の小さな博物館も、地球レベルの博物館へと生まれ変わるのです。
この地域の自然情報は、この地域で収集するほかにない。地域住民、ひいては人類に貢献する博物館の使命を胸に、今日も老眼と闘いながらレンズをのぞき続けています。
※エゾアカアシコメツキ発見者加藤敏行氏1998年命名(北見市在)
北網圏北見文化センター学芸員 柳谷卓彦