利尻島南部の鬼脇集落に真宗大谷派北州山真立寺があります。本堂の山号額には「北州山 寄進猿倉貞治郎 明治四十年歳在丁末(白文方印) 井上円了書 井上円了(白文方印) 文学博士(白文方印)」と刻まれています。
山号額のある真立寺訪れました。すると井上円了が書いた一軸の掛け軸が残されていました。「萬歳聲中拝聖恩」で落款の部分は「明治四十年歳在丁末(白文方印) 利尻寒中 円了道人書 井上円了(白文方印) 甫水(白文方印)」とあります。明治四十年とは、1907年で今から110年前のことです。利尻寒中の頃に訪れた井上円了とは誰なのかの調査を始めました。
井上円了とは哲学者、妖怪研究の創始者です。明治20年(1887年)に東洋大学の前身となる私立学校「哲学館」をつくり、そこに専門科を設け高等教育機関とするための寄付を募る活動として全国巡回講演をおこなっています。北海道を巡回したことは『新編全国巡講日誌北海道編』(東洋大学井上円了記念学術センター 1995年3月31日)に書かれています。目次には「明治25年(1892年)北海道巡回日誌」と「明治40年の北海道南西部および樺太紀行、北海道西北部および東部紀行、北海道中央部および東南紀行」とあります。最後に「明治四十年度統計付北海道および樺太開会一覧表」が記されています。
利尻への渡島は焼尻島から日高丸に乗って明治40年9月8日午前5時に鬼脇港に入港しました。ここで見えた利尻山のことを「波うちぎわより利尻山が高だかとそびえ、秋晴れの今日、その高く険しいさまを間近にみた。雲の姿や樹木の色さえ人の住むところとも思われず、それはあたかも武陵桃源の理想郷への関所のようであった」と書いています。武陵桃源とは俗世間とかけ離れた平和な別天地、理想郷のことです。利尻島には人が住んでいなく、自然だけの島であることを感じてしまいます。ところが、明治40年の利尻島の世帯は3,003、人口は15,613人で、現在の2016年12月末の世帯は2,432、人口は4,793人であることから、明治40年が世帯数で571、人口が10,820人が多くなっています。世帯数と人口の多さから街の賑やかさは、現在よりも勢いがあったのではないかと思われます。ここで謎が一つ。井上円了が利尻山を見てなぜ武陵桃源と感じたということです。現在よりも多い世帯と人口でしたが、当時は車が走ることなく道路が細く、海岸の道路沿いに家々が立ち並び、海岸近くまで木々が生い茂っていたこと。防波堤で造られる港などはまだできていなかったこと。客船は沖に止まり、艀船で乗客を運んだこと。建物は鉄筋鉄骨がなくほとんどが木造であったことなどから、利尻山の麓、森に囲まれた島人たちの暮らしを見ても、利尻山、雲、森の壮大な景観に井上円了は吸い込まれていったのかもしれません。そこから武陵桃源が浮かんだのでしょうか。
井上円了が武陵桃源の理想郷を感じたのは今から110年前のことです。武陵桃源を感じさせる利尻景観であることが、利尻島ならではの価値観であるのかもしれません。そのためには住んでいる島人が武陵桃源に居ることを感じる理想郷を創ることが必要だと、井上円了調査から感じました。
利尻島には井上円了資料が利尻富士町郷土資料館、利尻町立博物館(未撮影)、利尻町仙法志字御崎に1軸ずつあります。北海道及び樺太では63ヶ町村、123ヶ所で巡講をおこない、聴衆43,845人と記録されています。北海道・樺太(サハリン)に井上円了資料が残されているかどうかが気になっています。
<利尻島史調査研究 西谷榮治>