Breaking News
Home » 学芸員の研究ノート » ハスカップ 原野を飛び立った、初夏の果実【コラムリレー第9回】

ハスカップ 原野を飛び立った、初夏の果実【コラムリレー第9回】

「ハスカップ」とは?

 北海道の有名な小果樹「ハスカップ」。その名はアイヌ語の「ハ・カ(木の上にたくさんなるもの)」が語源で、スイカズラ科の低木「ケヨノミ」や、その変種「クロミノウグイスカグラ」の総称です。サハリン、アジア北東部などに分布し、北海道では道央~道東部の太平洋沿岸や湿原や高山帯に生育します。5月には1程のラッパ型の花を咲かせ、6月下旬~7月には果実が熟します。なぜ、この低木が、果樹として利用されるようになっていったのでしょう?

花の形態は個体により微妙に異なり、色も純白から、クリーム色までいろいろある。

 

ハスカップの実。熟すると濃い青紫になる。「毎日同じ場所を歩くと次々熟してとれるから、未熟な実は残しておきなさい」と言われていた。

ハスカップの塩漬け~〝なんぼでもあった”初夏の果実~ 

 いわゆる「勇払原野」を中心に、石狩低地帯南東部の湿原や低木林には、ハスカップが多く自生し、初夏になるとハスカップを採りの風景が見られました。「その辺りに、なんぼでもあった(いくらでも生えていた)」身近な存在だったようです。原野のハスカップの果実は、栽培種と違い非常に酸味が強く、苦い果実もありました。果実は生食のほか、砂糖漬けや焼酎漬けにされ、特に砂糖が普及する前は「ハスカップの塩漬け」が作られ、梅干しのように食べられていました

写真は苫小牧市内の弁当屋「甚べい」のもの。爽やかな酸味がある。

沼ノ端のハスカップ羊羹・三星のよいとまけ

 ハスカップはもともと「ゆのみ」や「やちぐみ・やちのみ」と呼ばれることが多かったようです。「ハスカップ」という名を商品名として広めたのは、沼ノ端駅の「近藤待合」で昭和8年から販売された「ハスカップ羊羹」です。白あんにハスカップを練りこんだもので、昭和10年に札幌で開催された「北海道工業振興共進会」にも出品されましたやがて苫小牧駅前「小林三星堂(現在の(株)三星)」でも昭和28年に、ハスカップを使った菓子「よいとまけ」の製造・販売を始め、広報に努めるほか、昭和30年頃には原材料の確保のため原野のハスカップの買取」も行うようになりました。こうして「原野の果実」は「菓子の原材料」になっていきました。

 

沼ノ端駅で販売されていた、近藤待合の「ハスカップ羊羹」。(所蔵・近藤俊一氏)

飛び立つハスカップ~築港・造成・そして「栽培果樹」へ

 昭和30年代中旬~40年代に、苫小牧港の開港・掘削、苫小牧東部地区の工場用地への転換・造成と開拓団の解散という、歴史的に大きな転換期を迎え、ハスカップの自生地の多くが消失しました。昭和48年頃に、苫小牧東部の工場用地の管理を担っていた苫小牧東部開発株式会社(現在の株式会社 苫東)で敷地内のハスカップやイソツツジの移植・保存調査のほか、希望者への株の譲渡行いました。また、昭和40年代後半~50年代には減反政策が本格化し、苫小牧、厚真、千歳、美唄などの農家が中心になり、転換作物としてのハスカップの栽培・利用の振興を進めましたこれらの事象が重なり、原野のハスカップは「小果樹」として広まったのです。

苫小牧の「コモンズ(共有地)」でハスカップを採集する人々。このような風景が、かつては当たり前にあった。

ハスカップの今 

 苫小牧では昭和61年に「市の木の花」として認定されました。「ゆうふつ」「ゆうしげ」「あつまみらい」「みえ」の4種類のハスカップの品種が現在登録されており、厚真町では、現在「ハスカップブランド化推進協議会」の取り組みにより、生産基盤の強化などの取り組みが行われています。一方、自生地では「誰でもハスカップを採集できる自生地」はほとんど消え、ハスカップ採りの原野の風景を知る人は減っています。人とハスカップの歴史と原野の行く末を見守り、記録すること残された者の使命であると感じています

【追記】本文は平成2823月に開催された企画展「ハスカップ」の内容に加筆・再編成したものです。また同年10月に「みえ」の育成者、黒畑ミエがご逝去されました。この場をお借りし、慎んでお悔やみ申し上げます。

〈苫小牧市美術博物館 主任学芸員 小玉愛子〉