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JR石北本線・秘境駅「白滝シリーズ」と武四郎が視た風景【コラムリレー第31回】

JR石北本線上白滝駅、白滝駅、旧白滝駅、下白滝駅(2001(平成13)年までは奥白滝駅を含む5駅)といえば、秘境駅「白滝シリーズ」として鉄道ファンの間で有名である。このうち白滝駅以外の無人駅3駅が、北海道新幹線開通前日の3月25日に惜しまれつつもその歴史に幕を閉じた。

駅名に「白滝」という地名が4つも続くことから有名になった区間であるが、これらの駅が位置した上白滝~丸瀬布間は、そびえ立つ岩壁のすき間を走り抜ける車両を撮影できる絶好のスポットとしても知られている(図1)。

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図1 そびえ立つ岩壁のすき間を走り抜ける貨物列車(撮影場所:白滝発祥の地、撮影:國分麻衣子氏)

実は、150年以上も前にこの地を訪れ、岩壁や地形に付けられたアイヌ語とその意味を記録した人物がいる。「北海道」の名付け親、松浦武四郎である。彼が記した「東西蝦夷山川地理取調日誌 戊子第二十七巻 西部 由宇辺都日誌」を紐解きながら、秘境駅「白滝シリーズ」のあった風景について紹介したい。

 

上白滝から丸瀬布に向けて、下り列車に乗ったつもりでこの区間を見てみよう。

上白滝駅を出発すると左手北側には山と畑が広がり、右手南側には小高い丘に鉄路と並行して走る高規格道路が見える。鉄路と高規格道路の間にはオホーツク海まで注ぐ湧別川が流れている。武四郎はこの川を遡って来たのだ。

この高規格道路は、湧別川右岸の段丘上に建設されており、建設の際にはこの段丘から大量の黒曜石の石器が出土した。古いものでは約3万年前、大雪御鉢平の噴火によって飛んできた火山灰の上から石器が見つかっている。これらの石器を見たい方は、白滝駅を降りて徒歩15分の位置にある遠軽町埋蔵文化財センターに立ち寄っていただきたい。

 

市街地にある白滝駅を過ぎると、北側に巨大な岩肌があらわれる(図2)。この岩は海の底に堆積した砂や泥が固まったものである。この岩肌には「アイカツフ」というアイヌ語地名がつけられ、武四郎の記述によれば、「(険しい岩山のため、登ることが)出来ない」という意味とされている。それまで湧別川の右岸を走っていた鉄路は、このアイカツフを避けるように手前でぐるりと回り込むようにして左岸側へと渡り、「幽仙橋」と名付けられた橋を横目に先へと進んでいく。

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図2 「アイカツフ」というアイヌ語地名がつけられた岩肌

幽仙橋は、その名が示す通り、幽霊の目撃談が絶えないことから名付けられたという。この地点は、1891(明治24)年に北辺の守備のため、囚人たちを使役して開削された旭川から網走をつなぐ北海道中央道路(別名囚人道路)と重なる。北見峠より湧別川に沿って道路の開削を行っていた囚人たちもこのアイカツフの壁にぶつかり、多数の犠牲を払って開削が行われたようである。そのことを示すように、アイカツフの袂には囚人墓地が残されており、多数の遺骨が発掘されているのである。

 

旧白滝駅を過ぎると、それまで広がっていた畑が見られなくなり、そびえ立つ岩壁が眼前に迫ってくる(図3)。この岩壁は、火砕流が固まった溶結凝灰岩という岩石でできている。近場でいうと、層雲峡の有名な柱状節理も同じようにしてできた岩石である。この場所には、地名である「白滝」発祥の地と呼ばれる滝がある(図4)。この滝にも「ホロソウ」という大滝を意味するアイヌ語地名が記録されている。武四郎の記述によれば、鮭や鱒などここより上には上がらなかったという。

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図3 車窓から見た溶結凝灰岩の露頭

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図4 地名「白滝」発祥の滝、周囲の岩石も溶結凝灰岩である

この白滝発祥の滝を境に、丸瀬布側(東側)にはこの溶結凝灰岩が広く分布している。とくに下白滝駅周辺では多くの露出した岩肌を見ることができる(図5)。それぞれにアイヌ語地名は残されていないが、武四郎は沢の名とともに「大岩簇々と並び立し間に有る」などとここの地形の特徴を記録している。

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図5 車窓から見た溶結凝灰岩の露頭

下白滝駅を過ぎると「馬止め」にたどり着く。その名の通り、馬を一度止めなければ通行が困難な交通の難所であったという。この場所にも「ホンソウ」というアイヌ語地名が残されており、上流の「ホロソウ(大滝)」に対しての小滝という意味であると記録されている。現在は滝のような落差のある地形は知られていないが、大正期まではあったことが伝わっている。馬止めを過ぎると、再び畑が広がるようになり、3つの川が合流する場所という意味の「マウレセツフ」が由来となった丸瀬布に到着するのである。

 

「白滝村史」によれば、中央道路開削の際、上流の「アイカツフ」と下流の「馬止め」は天然の関所の役割を果たしていたようで、その中間の下白滝周辺は逃亡の心配がないことから囚人たちの鎖を外して働かせていたと伝わっている。このような狭隘な地形をつくりだしたのは、どうやら火砕流が固まった溶結凝灰岩が関係しているようだが、これについては今後詳しく調査をしていきたい。

 

武四郎の記録や中央道路開削の記録が示すのは、この区間が交通の難所であったということである。鉄道が開通する以前は、徒歩か馬車での移動だった。そのため、遠軽方面で購入した品物は運賃が高くつき高価となり、逆に白滝方面からの農作物等は運賃がかかって安価となった。白滝の住民は二重の苦しみを味わっていたのだ。その苦しみを解消してくれる鉄道の存在、集落の近くに停車する駅の存在はまさに希望だったのだ。

この春には3駅の駅舎は取り壊されてしまう。しかし、武四郎がそうしたように記録し語り継ぐことはできる。秘境駅「白滝シリーズ」のあった風景を地域の遺産として語り継いでいきたいと考えている。

 

<遠軽町埋蔵文化財センター 学芸員 熊谷誠>