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クナシリ・メナシの戦いの風景【コラムリレー第21回】

1789年に和人のアイヌ民族に対する非道行為が原因となり、アイヌ民族が71人の和人を殺害する事件が現在の国後島や標津・羅臼地方を中心に起きた。松前藩はすぐさま鎮圧軍を道東に派遣し、武力衝突は避けられない事態だったが、アイヌ民族の首長らが間に入り、直接的な衝突は回避された。アイヌ民族の首長らの姿は蠣崎波響によって「夷酋列像」として描かれた。この事件は「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれ、最終的にノツカマップ(現在の根室市牧の内)で戦いの中心となったアイヌ民族37人が集められ処刑された。ここでは、根室市内のクナシリ・メナシの戦いに関係した土地にあるアイヌ文化期の遺跡を紹介する。

根室半島における遺跡、地名位置図

根室半島における遺跡、地名位置図

ノツカマフ1・2号チャシ跡
当時、ノツカマップには運上屋が設けられておりアイヌ民族や和人がいたが、1778年にはクナシリのアイヌ民族の首長であるツキノエがロシアの商人シャバーリンらを連れてくるなど千島やロシアとの関係がある地だった。また、この地はションコというアイヌ民族の首長がおり、夷酋列像附録によると弓矢の名人でアイヌ民族の中でも尊敬を集めていた。
現在、ノツカマップには国指定史跡根室半島チャシ跡群の一つであるノツカマフ1・2号チャシ跡がある。チャシ跡はアイヌ民族にとって聖地、砦、談判の場などの用途で使われたとされる。ノツカマフ1号チャシ跡は、海を臨む崖上に幅約5m、深さ約3mの壕が70m×25mの範囲で2つ連結している。ノツカマフ2号チャシ跡は幅約3m、深さ約0.5mの浅い壕が巡る。このチャシ跡からはクナシリ・メナシの戦いの起こった羅臼・標津方面、国後島が一望できる。ノツカマップでは毎年、アイヌ民族が、チャシ跡や戦いの起きた土地を臨む位置からクナシリ・メナシの戦いで犠牲者となった先祖の供養を行っている。

ノツカマフ1・2号チャシ跡

ノツカマフ1・2号チャシ跡

 

トーサムポロ湖周辺竪穴群
トーサムポロ沼はノツカマップから東へ7kmほどの位置にある、周囲3kmの海とつながった海跡湖である。この周囲にはオホーツク文化期や擦文時代を中心とする、約1,300軒の竪穴住居跡が凹みとなって残る。平成21〜24年にトーサムポロ湖周辺竪穴群の発掘調査が(公財)北海道埋蔵文化財センターによって行われ、アイヌ文化期の住居跡や貝塚が調査された。これらは1739年に降下した樽前a火山灰の上に構築されており、1789年のクナシリ・メナシの戦いに近い時期に機能していた可能性がある。また、これらに伴う金属製品が121点出土している点も当時の物流や集落の機能を考える上で注目される。
夷酋列像に登場するシャモコタン首長のノチクサはクナシリ・メナシの戦いの際、少なくとも5カ所のチャシ跡を築いたと夷酋列像附録にある。シャモコタンはトーサムポロ沼から約2km西の地名であるサンコタンと比定されている。トーサムポロ沼の周囲には5カ所のチャシ跡が確認されており(うち2カ所は消滅)、サンコタンとトーサムポロ沼の間にも2か所チャシ跡があり、ノチクサのチャシ跡築造の記録とチャシ跡の分布の集中が重なってくる。今回の発掘で明らかになったトーサムポロ沼のアイヌ文化期の集落やチャシ跡とシャモコタン首長のノチクサの関連性も今後考えていく必要がある。

トーサムポロ沼

トーサムポロ沼

おわりに
根室市ではノツカマフ1・2号チャシ跡の遺構周辺の草刈りや駐車場の整備をしている。遺跡からは知床方面や北方領土が見え、海を介して往来をしていたアイヌ民族の生業領域やクナシリ・メナシの戦いの関連地の位置関係が一目瞭然に把握できる。アイヌ民族の歴史や遺跡を実感できる景観として今後とも残していかないといけないと考える。

根室市歴史と自然の資料館 学芸員 猪熊樹人