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利尻のテングサと海女の出稼ぎ【コラムリレー第13回】

利尻山と磯まわり(2012年撮影)

利尻山と磯まわり(2012年撮影)

北海道を代表する海産物は数あれど、サケでもウニでもコンブでもなく、読者にはちょっと馴染みの薄いものを紹介したい。それは、テングサ。

トコロテンや寒天の原料となる海藻と聞いて、おわかりいただけるだろうか? 南の暖かい海のイメージが強いテングサだが、かつては北海道も有数の採取地のひとつだった。主な採取地は渡島半島、積丹、留萌、利尻・礼文などで、商品としてのテングサは本州の寒天製造地に出荷された。

テングサ干し(利尻町沓形、2007年撮影)

テングサ干し(利尻町沓形、2007年撮影)

テングサ(左:未晒(色が紅い) 右:晒済み(紅い色素が抜ける))

テングサ(左:未晒(色が紅い) 右:晒済み(紅い色素が抜ける))

利尻のテングサ漁のことを調べるために、文献をめくっていて驚いた。今から百年以上も前、1890年代(明治25・26年頃)から、テングサ採りのために三重県志摩地方から海女たちが出稼ぎに来て、利尻の海に潜っていたという。

そこで明治時代に三重県で発行された『伊勢新聞』などを調べてみると、興味深い記事を見つけた。1893(明治26)年7月7日付記事は、前年(1892年)に三重県御座地方(現在の志摩市)の海女・海士約60人が利尻島へ向け出発したこと、利尻がテングサ、コンブ、ウニの豊富な島であることを報じる。また、同月21日付記事は、三重県から利尻島に視察旅行に出た人物の報告として、テングサを採るため三重県越賀地方(現、志摩市)の海女30余名を伴って利尻にやって来た三重県出身者に出会ったこと、離島の際に同じく前島地方(現、志摩市)から来島した別の海女30余名を見たことを伝える。

なぜ海女が、テングサを取りに利尻までやって来たのか?謎を解くカギは、当時の志摩地方の磯の状態と、中国向けの輸出商品にあった。

明治の中頃、三重県志摩地方沿岸の磯荒れが顕著となり、テングサ資源が減少したこと、中国輸出向け寒天の需用が高まったことで、原料となるテングサの需用が増大したことなどが、志摩地方の海女が出稼ぎの理由だった。『伊勢新聞』が伝えているように、利尻の豊かなテングサ資源に目をつけて、はるばる海を渡って来たのだろう。それにしても、利尻のテングサ情報が遠く三重県志摩地方にまで達していたとは、海女や海産商たちの情報ネットワークには驚かされる。

少し時代を経て、1906(明治39)年8月3日付『小樽新聞』でも、利尻の海女の情報が掲載される。海深7尋までは男性が「くまで」と呼ぶ道具を使ってテングサを採ること、海深が10尋に及ぶと海女がポケット付の「短褐」1枚を身につけガラス張りの眼鏡をかけて、らせん状に遊泳して海中に潜り、呼吸の続く限りテングサを採ること、海女は1日3回・1時間ずつ海に潜ることを伝えている。

利尻の海女はテングサ採り以外の場面でも活躍した。大正時代の初期、当時の北海道水産試験場が実施した利尻島沖合でのアワビの移殖試験だ。利尻の海女がアワビの採取や放流に従事した。1913(大正2)年の試験では、2名の海女が雇われた。同年の春に三重県志摩地方から初めて利尻に来島した女性で、年齢は22歳と23歳。二人とも、故郷では真珠貝の移殖に雇われた経験があり、前年までは朝鮮でアワビ採りに従事していたことから、アワビの取扱については熟練者だったという。利尻の海女をキーワードに、テングサとアワビの意外なつながりが見えてくる。

残念ながら、利尻の海女経験者は皆亡くなられており、当時のことをお聴きすることは不可能となってしまった。また、利尻・礼文のテングサ漁は、現在は資源不足や従事者の高年齢化により、自家消費用・お土産用としてわずかに採取されるだけとなっている。

テングサ採り(利尻町仙法志、2008年撮影)

テングサ採り(利尻町仙法志、2008年撮影)

利尻島を訪れる機会には、ぜひ、この地で活躍した海女たちに思いをはせて欲しい。

<北海道博物館 学芸員 会田理人>