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鉄道と地形が歴史を語る:根室本線白糠〜浦幌間【コラムリレー第12回】

図1 厚内トンネルの上から浦幌方向を見下ろす。山合いの谷間を縫うように、白糠丘陵を越えているのがわかる。

図1 山合いの谷間に築かれた長い築堤をゆっくりと登る特急列車。勾配、曲線、築堤、トンネル・・・全てがこの区間のルート選定の苦労を物語っている(上厚内〜常豊信号場)

鉄道は道路以上に勾配や曲線に弱い。そのため、いま話題の北海道新幹線をはじめ、近年の鉄道はなるべく直線の緩勾配で目的地を目指すよう建設される。土木技術と車両技術の双方が進歩し、高速車両を安定的に運行する事が可能なように、そうしたルートがとれるようになった。もちろん、在来線の線路改良も徐々に実施されているし、ダムの建設や河川の流路変更など、外的な要因の変化に伴い、線路配置が変わる事も多い。

道央と道東を結ぶ大幹線である根室本線も例外では無く、かの狩勝峠をはじめとして、明治の開業以来たびたびルートの改良が行われてきた。しかしそんななか、開業以来の線形をほぼそのまま引き継いでいる区間が、釧路・十勝国境地帯を駆け抜ける白糠〜浦幌間である。

 

図2 1903(明治36)年の浦幌駅開業祝賀の様子(浦幌町立博物館所蔵)

図2 1903(明治36)年の浦幌駅開業祝賀の様子(浦幌町立博物館所蔵)

1900(明治33)年、釧路から始められた官設鉄道釧路線の敷設工事は、翌年には白糠まで開通。1903(明治36)年には釧勝国境を越え、浦幌へ到達した(図2)。これが十勝では最初の鉄道となる。ちなみに帯広へ通じたのは2年後の1905(明治38)年10月。帯広駅はまさに今月で開業110年を迎えた。さらに釧路線は、旭川から延びてくる十勝線と1907(明治40)年になって帯広で合流。後に釧路本線、さらには根室本線と路線名を変えながら、現在の大動脈へと発展した。

ところで、白糠から浦幌へかけては、標高こそ低いが複雑な地形が連続する白糠丘陵と、パシクル沼やキナシベツ湿原などの湿地帯、断崖絶壁の続く海岸地帯が連続し、鉄道にとっては知られざる難所だ。明治時代の鉄道技師たちは、いったいどこに線路を通すのが最適なのか?ルート選定に非常に苦労した。

その苦心の跡は、現在も白糠〜浦幌間の複雑に曲がりくねった線路配置に見る事ができる。湿地を避け、断崖と河川に沿って何度も曲がり、トンネルは最も短く済む場所まで上り詰めて一気に通過する。上り列車に乗ったつもりで、白糠から浦幌までの区間を見てみよう。

 

図3 パシクル沼を迂回する根室本線(古瀬〜音別)

図3 パシクル沼を迂回する根室本線(古瀬〜音別)

漁港のある沿岸の町、白糠を出た列車は、和天別川に沿って内陸部へ向かい、音別町との境界付近に広がる海岸段丘を短い古瀬トンネルで貫通すると、パシクル沼の湿地帯を迂回する(図3)。
再び海岸へ出たかと思いきや、音別川の河口扇状地に入るとやや内陸へ入り、音別川を渡ると再び海岸に出る。

図2 直別〜厚内間の乙部海岸沿いを走る列車。吉田栄陽堂絵葉書(浦幌町立博物館所蔵)

図4 直別〜厚内間の乙部海岸。現在は線路の一段下を道道も併走している。 吉田栄陽堂絵葉書(浦幌町立博物館所蔵)

が、それも束の間で再び緩やかに内陸部へ入り、キナシベツの湿地帯を迂回。徐々に迫ってくる白糠丘陵の末端部を直別トンネル、乙部トンネルで貫きつつ再び海へ向かうと、奇岩が連続する乙部海岸を厚内まで辿る(図4)。

図5 海岸線から大きくカーブして内陸部へ入り、厚内川沿いに山越えへ入る(厚内駅構内)

図5 海岸線から大きくカーブして内陸部へ入り、厚内川沿いに山越えへ入る(厚内駅構内)

厚内は十勝で唯一海の見える駅で、この先は完全に山地帯となり、蛇行する厚内川を何度も渡りながら川沿いに徐々に高度を上げる(図5)。
標高は上厚内を過ぎたところでピークに達し、厚内トンネルで丘陵を抜けると、今度は逆に16.7‰の長い下りに転じる(図1)。
山裾に巻くようにカーブしながら谷間を埋めて築かれた築堤を下り、常豊信号場へ到達すると浦幌川流域へ入る。あとは川に寄り添うように下れば浦幌へ到達だ。

かつて鉄道は、車窓から地形を実感できる交通機関であった。そうした地形上の制約を取り払う事が可能な技術が進歩し、また北海道では鉄道自体も大幅に減少した今日、このような地形に大きく制約された時代の線形が色濃く残る区間は数少ない。地図を片手に車窓を観察していると、厳しい地形の「すきま」を見事についている事がわかり、よくぞここまで線路を敷いてくれたと、明治の鉄道技師達に畏敬の念を抱かずにはいられなくなる。

 

図5 レンガ橋台と石垣組築堤、八幡製鉄所の鉄鋼を用いて作られた橋桁がいまも生きる乙部川鉄橋

図6 レンガ橋台と石垣組築堤、八幡製鉄所の鉄鋼を用いて作られた橋桁がいまも生きる乙部川鉄橋(直別〜厚内)

また、この区間には、開業以来のレンガ造りのトンネルや鉄橋などの鉄道遺構が残り、しかもいくつかの構造物は現在も現役で用いられているのである(図6)。また、沿線にはオタフンベチャシや旧斎藤牧場事務所など鉄道以外にも貴重な文化財が点在し、列車の車窓から観察する事ができる。そう考えると、白糠〜浦幌の鉄道それ自体が、地理や歴史や民俗といった、さまざまな要素を学ぶ事ができる、豊かな可能性を持つことに気づく。

今年から浦幌町立博物館では、この区間を実際に活用した、鉄道による巡検を試みている。また、列車から観察できる自然や文化財などを紹介した「車窓地図」の試作も始めた。鉄道も紛れもなく「地域の遺産」なのである。

<浦幌町立博物館 学芸員 持田誠>