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地鳴りする太鼓山【コラムリレー第2回】

厚沢部町市街地の近くに「太鼓山」という名前の小さな山がある。
標高171mの低山だが、国土地理院の地図にも載っている。

太鼓山2

(地理院タイル及び国土地理院発行基盤地図情報数値標高データ(10mメッシュ)を加工して使用)

太鼓山の山頂で足を踏み鳴らすと「ドンドン」と太鼓のような音が響くことで知られている。
地元の方は「最近は昔ほど鳴ならなくなった」という。

DSC_1835_太鼓山
(太鼓山山頂付近の平坦面で足を踏み鳴らすと「ドンドン」と太鼓のような音が鳴る。相撲の土俵くらいの広さの「地鳴りスポット」がある。)

 

太鼓山と鶉山道

太鼓山は市街地に近く、また小学校の裏山だったことから以前は子どもの遊び場となっていた。
現在は、樹齢50年ほどのトドマツやスギなどが生い茂り薄暗い森になっているが、かつては、ツツジが太鼓山全体をおおい、とても綺麗だったと地元の方はいう。

もともと、太鼓山の遊歩道は「鶉山道」と呼ばれる箱館〜江差間をつなぐ街道の一部で、特に箱館開港の安政年間以降は、江差商人などが道路開削などに務め、整備されてきた歴史がある。
明治元年に館城に松前藩主徳広が入城した時には、太鼓山の麓で住民が出迎えたといわれている。

DSC_1787_見出しの笠松

(太鼓山の登り口にある「見出しの笠松」の下で住民が藩主徳広を出迎えたと伝えられる。)

 

DSC_1833_太鼓山遊歩道

(太鼓山山頂へむかう尾根筋の道。かつてはこの道路が箱館〜江差間の主要道路だった。藩主徳広が館城に入城するときにも通ったと伝えられる古い道だ。)

 

明治19年に北海道庁が現在の国道227号の前身となる道路開削を行ったことで、太鼓山越えのルートは主要道路としての役割を終えたが、薪炭採取や芝刈りなどで、太鼓山は変わらずに利用されてきたと考えらる。

37甲_俄虫村字焼山旧道及び岩面眺望

(澤田雪渓『鶉山道図鑑』は明治19年の鶉山道工事の様子を記録した石版画。工事中の新道と右上の山に向かってのぼる旧道が描かれる。この旧道が太鼓山を越えるかつての街道だった。)

 

太鼓山利用の変化と現代

太鼓山の身近な利用は、昭和40年代以降低調となり、今では植林された針葉樹や薪炭材として利用されなくなったミズナラやブナなどが大きく成長している。
かつては全山をおおったといわれるツツジは徐々に消滅し、現在では見ることができない。
また、新しい住宅街が太鼓山から離れた緑町や松園、赤沼町などにつくられたことによって、太鼓山で遊ぶ子どもも減っていった。

年配の方々は、「太鼓山の樹木を整理して、昔のような眺めの良い、そしてツツジが咲き誇る山にして欲しい」と言う。
日本の自然環境において、低木、灌木が優占する環境を人為的に維持するのはかなり困難なことだ。行政的にそのような環境を維持するには、それなりの覚悟が必要だろう。

DSC_1839_太鼓山眺望

(太鼓山山頂から眺めた厚沢部市街地。現在では樹木が生い茂り、眺望のきく場所はほんのわずかしかない。)

 

よくわからないけれど大切にされてきたもの

太鼓山は自然的な文化遺産だが、その価値は人の暮らしや子どもの遊びと関わっている。
あと30年ほどすると、太鼓山に特別な想いを寄せる人びとの数も減り、太鼓山も特別な場所ではなくなっていくのかも知れない。

それは自然なことなのかもしれないが、「殿様も通った昔の街道」、「地鳴りする山頂」、「山いっぱいのツツジ」という記憶そのものは残していきたい。

その意味はよくわからなくなっても、様々な記憶を刻んだ土地が当時の面影とともに保存され、古い記憶が街中に張り巡らされる。
「よくわからないけど昔から大切にされてきたもの」で覆いつくされたまちになればいいと思う。

<厚沢部町役場総務政策課(自治労檜山地方本部書記長として休職中) 学芸員 石井淳平>