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八雲鉱山と鉱山街【コラムリレー第1回】

八雲町には、かつて鉱山と鉱山街が栄えていた。その興亡史を紹介するとともに、現在の様子を紹介する。

八雲鉱山と鉱山街の地図

八雲鉱山と鉱山街の地図

鉱山の記録で最も古いものには、1674(延宝2)年に遊楽部鉱山で銀・鉛・金を産出したとある。このとき金を精選するために使ったと伝えられる石臼がある。

これ以後、江戸時代には鉛・金・銀採掘のため操業と廃止を繰り返す。一部紹介すると、1859(安政6)年に、ここから採れる鉛は「賽の目鉛」と呼ばれ、上質なものであったと伝えられる。また八雲鉱山墓地には、1861(文久元年)に雪崩で亡くなった人々の墓が多数あり、かなりの人が採掘に従事していたと考えられている。そして1862(文久2)年には、アメリカの地質兼鉱山技師が西洋式の火薬を使った岩石を破砕する方法を日本で初めて指導している。

鉱山墓地

鉱山墓地の様子

なお、江戸時代には熊石(日本海)側からもアクセスしていたようで、泊川金山道と呼ばれる鉱山への道や、死亡した鉱夫の戒名を記載した無量寺の過去帳が存在する。

明治年間も幾度か採掘がおこなわれたが、あまり成果は上がらなかった。それが大きく変わるのが、大場鉱業所による1918(大正7)年からのマンガン鉱を主とした採掘である。昭和3年ごろの鉱員数は49名との記録がある。

その後、1931(昭和6)年には八雲鉱業株式会社の経営に変わり、施設を整備拡充し、従業員も増加していく。昭和9年には従業員83名おり、児童が20名いたことから特別教授場が設置された。

1936(昭和11)年には中外鉱業株式会社に合併され、翌年に日中戦争がはじまりマンガン鉱の需要がさらに拡大し、年々事業を拡張した。太平洋戦争へ突入すると、勤労動員や韓国人労務者などで入山者が増加し、増産に拍車がかかる。マンガン鉱は軍事物資として重要であったため待遇はよかったらしく、韓国人労務者用にオンドル(床下暖房)を備えた住宅も作られた。これが北海道で最初に作られたオンドルとの指摘がある。なお八雲鉱山には他の鉱山にみられた徒弟制度は存在しなかった。学校は昭和15年に児童数60名を数え、韓国人の子どもも一緒に通ったという。また輸送力強化のために索道(ロープウェー)が建設されはじめ、昭和18年には鉱山小学校付近から八雲駅までの17kmの区間が索道で結ばれた。

索道1

索道

戦後、一時採鉱を中止するが、復興資材として必要とされ昭和21年再開する。小学校と中学校が併設され、校舎や体育館が増築された。昭和30年には小学生129名、中学生62名がおり、鉱山の従業員は300人を超え、鉱山街の設備は簡易郵便局、診療所、クラブ、2つの温泉浴場などがあり、マンガン鉱山として全国10傑のなかに入っていた。

焙焼炉(左)と変電所(右)

焙焼炉(左)と変電所(右)

鉱山小中学校

鉱山小中学校

鉱山街

鉱山街

しかし、1961(昭和36)年に鉱石の輸入自由化や、鉱脈の量に限界がみえたことなどから、昭和37に大規模な縮小・配置転換が行われた。翌年には良質な桜マンガンを加工し、装飾品桜ローズとして販売することも始めるが、昭和44年には採鉱を中止、小中学校は廃校、その他の施設も閉鎖され、人影が消えた。

今、車から簡単にアクセスできる範囲には、鉱山第二温泉跡地を再開発したおぼこ荘、鉱山小中学校の跡地、索道の原動所跡、クラブ跡地、復興橋、第一号温泉跡地、山神さんの神社、旧郵便局を利用したオボコ山ノ家がある。

鉱山小中学校跡地の石碑

鉱山小中学校跡地の石碑

 

復興橋

復興橋(渡るのは危険)

 

山神さん

山神の社

 

オボコ山ノ家

旧郵便局を利用したオボコ山ノ家。山小屋として利用されている。この直前に架かる橋は、2015年に新しく架け替えられた。

 

雄鉾岳への登山口付近に鉱業所事務所があったが、現在正確な場所はわからなくなっている。鉱山街の入り口から道を歩いてみると、ここに何百人と暮らしていたことは想像できない。廃坑になってからまだ半世紀も経過していないが、失われつつあるこの遺産を、まずは記録として残していきたい。

 

<八雲町郷土資料館 学芸員 大谷茂之>