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松前線のタブレット【コラムリレー第32回】

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知内町は青函トンネルの出入口のまちとして知られています。12月1日には新幹線の走行試験が始まり、いよいよ北海道を新幹線が走る日が近づいてきました。鉄道つながりで今回はこの「タブレット」をとりあげます。ちなみに最近小学生が見学に来た時「何このカバン?」と聞かれました。なかなかオシャレですがワイヤーが目立ちそうです。

 

木古内~松前間を昭和63年まで松前線が通り、町内にも4つの駅・乗降所がありました。北島三郎さんもこの列車に乗って高校へ通学していました。

大正12年 政府が松前線を敷設予定鉄道線路に加える

昭和11年 着工

12年 福山線木古内~渡島知内間が開通

13年 福島町千軒(当時は碁盤坂)まで開通

この頃の中国との戦争による資材不足で建設がストップしますが、昭和17年に兵器製造に不可欠なマンガン鉱開発のためとして再開されます。この時朝鮮人が強制連行され、過酷な労働に逃げ出した者も少なくなかったそうです。その人たちをかくまったという話が伝わっています。松前まで開通するのは戦後の昭和28年のことで、このように長期にわたって建設される路線は全国的にも珍しいようです。

 

さて、松前線は単線で同じレールを両方向から列車が走ります。そこで衝突事故防止のために「閉塞」という、一定の区間内を同時に二本の列車が走らない仕組みをとります。その手段の一つとしてタブレットが使われました。閉塞区間の両端(駅)に通票閉塞機を置き、互いに通信しながらタブレットを一つだけ取り出します。タブレットは写真のようなケースに入れられ、これを持つ列車だけが閉塞区間を走れるようにすることで事故を防ぐのです。ワイヤーが大きな輪になっているのは受け渡しの利便性を図るためです。

 

長らく地域住民の足となってきた松前線ですが、昭和59年、第2次特定地方交通路線として廃線候補にあがります。地元で期成会をつくって乗車運動を行い、乗客数が廃止の基準から抜け出た時期もありましたが、最終的には昭和63年1月31日の運行をもって廃線となりました。松前線は海峡線の並行在来線として廃止されたわけではありませんが、くしくも海峡線の開通は廃線の2か月後。北海道と本州が鉄路つながった陰で、地域住民の足をなくしていたわけです。写真のタブレットは、最終日に運行されたセレモニー列車で使われたものです。海峡線は自動閉塞式のため、タブレットも使われなくなりました。

 (知内町郷土資料館 学芸員 竹田 聡)