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親分子分って何者? 炭鉱街の友子の免状【コラムリレー第29回】

tomokomenzyou

親分と子分の名前がびっしりと書かれた紙。一体なんでしょう。時代劇の小道具? いいえ、これは友子の免状と言って、鉱山での師弟関係について記述された資料です。

三笠は明治のはじめに炭鉱が開鉱され、平成元年に市内で最後まで操業していた幌内炭鉱が閉山するまで、炭鉱の街として栄えた都市です。

炭鉱が開鉱されはじめた明治時代の初頭に、炭鉱で働くためにやってきた炭鉱労働者は、主に本州の諸地域から単独で着の身着のままやってきた人達でした。中には炭鉱でどのように働くのか、炭鉱街での暮らし方も分からないという人もいました。こうした人達は、炭鉱で豊富な経験を持つ「親分」と呼ばれる人の下へ「子分」にしてもらうように願い出ました。親分が子分にすることを了承すれば、「取り立て式」という儀式が執り行われ、「友子」と呼ばれる組織の一員になりました。その時にこの免状が作成されました。免状は長さ数メートルにわたって、親分と子分の関係が示されています。

友子に加入すると、親分の元で、炭鉱で働くための修行が行なわれました。子分はそこで3年3月10日の見習い期間を経て弟分を持つことが許され、さらに3年3月10日の修業期間を経て一人前の鉱夫として認められました。この他、友子には冠婚葬祭の際に手伝いが行なわれたり、怪我をして働けなくなった場合に金銭等が与えられたりするなどの相互扶助の面がありました。

さて、免状に目を移すと、親分や子分の名前の他に、出身地が記入されています。記述する内容は全国の鉱山の友子でほぼ統一されていて、必ず氏名や出身地が記入されます。三笠の場合は写真で分かる通り、記載された出身地がばらばらになっています。なお、頭にある「大工」とは、職人であることを示しています。

三笠の炭鉱は明治の初めに開かれていきました。当時は三笠周辺の地域だけでは炭鉱で働く人員が足りず、本州からも労働者を雇い入れました。このため、友子の免状に名が連なっている人々の出身地も、日本全国に及んだのだと考えられます。

友子の免状は、当時の師弟関係、そして三笠の炭鉱労働者がどのような地域を出身とする人々で構成されていたかを知る手掛かりとなります。こうした一枚の紙からも、三笠の炭鉱文化、炭鉱街への移住の歴史までを知ることができるのです。

<三笠市立博物館 研究員 高橋史弥>