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元新選組副長助勤・永倉新八にゆかりの資料【コラムリレー第10回】

 

 

北海道開拓記念館が所蔵するさまざまな歴史資料の中で、メディアや出版物に利用される頻度が最も高いモノの一つに、元新選組副長助勤・永倉新八ゆかりの資料群(杉村家資料)があります。

ここ最近では、“剣術家列伝的な娯楽本を制作中で、その図版に資料の写真を使いたい”という照会を複数の出版社からいただきました。人気漫画を原作にした映画の公開をこの夏に控え、世間では剣術家ブームが盛り上がりつつあるのかもしれません。

 

永倉新八は、天保10年(1839)、松前藩江戸定府取次役・長倉勘治の次男として江戸の松前藩邸で生まれました。その当時、長倉家は中之間席、150石取りの中堅家臣でした。安政4年(1857)、19歳の時に剣術修業を志し、藩邸を飛び出した新八は、文久3年(1863)、25歳の時に近藤勇、土方歳三などとともに幕府が募集した浪士組に参加して上京、やがて、京都守護職・会津藩主松平容保のもとに編成された新選組の幹部隊士として、池田屋事件など、いくたの激闘をくぐり抜けました。

慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争では、新選組は、幕府側の一員として新政府側と戦いましたが、奮戦空しく敗走を重ねました。それでも生き延びて江戸へ戻った新八は、松前藩の家臣に復帰します。明治4年(1871)には松前へ渡って、藩医・杉村家の婿養子となり、名を杉村義衛と改めました。その後は、樺戸集治監で看守を相手に撃剣師範を務めたり、再び上京して東京で町道場を開くなど、剣の道で生計を立てていたと言われています。

明治32年(1899)、61歳の時に北海道へ戻ってきた新八は、余生を小樽で過ごし、大正4年(1915)に77歳の生涯を終えました。

 

30点ほどの杉村家資料から、今回は、「七ヶ所手負場所顕ス」という資料を取り上げました。
これは、明治44年(1911)12月11日付で、当時73歳の新八が、新選組時代に負った7か所の刀傷・鉄砲傷について、半紙4枚に細かい字で、その経緯を書き記したものです。幕末の動乱の世の中を生きた新八の姿を、当事者だけが伝えられる生々しさをもって知ることができる貴重な資料と言えます。また、最後に、孫4人の名前を挙げ、「成長ノ時披見イタス様」と記しています。自身の新選組時代の経験を通じて、孫に伝えたかった“想い”とは何だったのか――あれこれと想像をかき立てられる、印象的な一文です。

 

写真:「七ヶ所手負場所顕ス」(北海道開拓記念館所蔵 収蔵番号127,844)
<北海道開拓記念館 学芸員 三浦泰之>