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鉄道を敷きたかった人々の記録【コラムリレー第9回】

 

コラムリレー用

 

 

1903(明治36)年12月25日、官設鉄道釧路線、現在の根室本線が、釧路と浦幌の間で開業しました。十勝地方最初の鉄道であり、このとき厚内と浦幌の2駅が置かれました。

当初、鉄道は浦幌を経由せず、厚内から海岸線を辿って、当時の十勝川河口である十勝太へ向かう事になっていました。北海道庁もこの計画に基づき、十勝太に河口都市を作る構想を策定して、市街地割なども行われました。しかし最終的にルートは変更となり、鉄道は厚内から山へ入って浦幌を経由する、今の姿になりました。

十勝太に鉄道を通して新市街を作る事を夢見ていた大津の人達は、ルート変更の可能性を知ると反発し、「十勝海岸線保持同盟」を結成。計画通り海沿いに鉄道を敷く事を求めましたが、叶いませんでした。

ところが、厚内から海岸沿いに鉄路を敷く夢は、別の形の運動となって続いていきます。それを示す数少ない史料が、浦幌町立博物館の「荒木家文書」の中にある、この「嘱託状」です。「厚内忠類間鉄道経済線期成会幹事を嘱託ス」と記されたこの書状は、現在の浦幌町厚内と幕別町忠類の間を鉄道で結ぶ運動が存在した事を示しています。

この嘱託状は1929(昭和4)年のものですが、忠類には翌年、帯広から広尾線が通じています。広尾線は将来、日高本線の様似まで延伸する計画でした。全て実現していたら、日高から十勝の沿岸を周回する長大な海岸鉄道となっていた事でしょう。記録によると、以後、戦後まで度々国会請願が繰り返されていたようです。

「同地方は水産を初めとして、林産、農産、凡ゆる面に北海道の全面的な産業を包含致して居り、洵に有望の地域でありますが、遺憾ながら今日まで、前に申上げましたやうな、貧弱なる交通事情にあるので、同地方の開發は固より、北海道全體としましても、十勝を中心としての凡ゆる産業面に幾多の支障を來して居る状態であります(「昭和21年衆議院議事録」発言者は本名武議員)」

しかし、厚内〜忠類間の鉄道は、新線建設の根拠となる「鉄道敷設法」に未掲載の路線であった事から、着工には至りませんでした。やがて忠類側の広尾線も1987(昭和62)年に廃線となり、運動の存在そのものが忘れ去られてしまいました。

今は海辺の小駅に過ぎない厚内駅が、ひょっとしたら山線と海線の分岐駅になっていたかもしれない。そうした可能性の存在した時代と人々の願いを、この嘱託状は今に伝えています。

 

写真:「嘱託状」(浦幌町立博物館所蔵 収蔵番号1991-7)

<帯広百年記念館 学芸調査員 持田誠>