文化勲章受章者の斎藤茂吉氏は、教科書にも登場する日本歌壇の宝であることは全国民が知るところです。北見市が所有する斎藤茂吉関係資料は、その数1,068点にもおよぶ日本最大級の資料です。
なぜ、このような資料が北見市にあるのでしょう。
この資料群を語る重要な人物として登場するのが守谷喜義氏です。氏は、中川郡中川町出身で、18歳の時に野付牛町(現北見市に転居)居を構え、農業関連団体職員や北見市議会議員を歴任しました。茂吉との縁は、昭和16年、斎藤茂吉の実兄であり北海道拓殖医だった守谷富太郎の娘富子と婚姻し、婿養子として守谷家に入ったことによります。
義父の富太郎が亡くなった後も、茂吉と親交を深めていました。その親密ぶりを語る資料の一つが、喜義氏の再々婚後に生まれた長男富太の生誕を祝い茂吉が守谷家に送った短歌「このときに生まれいでたる男子よ 雄雄しく清くたまひしを繼げ」です。
喜義氏は、富太郎と茂吉の間で交わされた224通におよぶ書簡や、48点の絵柄短冊など多くの資料を、富太郎から引き継ぎました。茂吉の長男であり作家・精神科医として知られる斎藤茂太氏も、「これだけの茂吉資料は斎藤家にもない」と評価したとのことです。
この資料が持つ大きな魅力は、富太郎と茂吉、二人の兄弟医者の物語だと考えています。
斎藤茂吉は、東京青山の大病院で精神科医として勤務しヨーロッパへの国外留学を果たす一方、日本歌壇の第一人者として日本文化の第一線で活躍しました。
一方、6才年上の富太郎は、明治39年に苦学の末医術開業試験に合格すると東京を離れ、小樽市で眼科医院を開業し、続いて北海道の寒村を回り僻地医療に汗を流し続けました。同じ医者でも都会の大病院と地域医療という真逆の医道、人生を歩んだ兄弟だったのです。
茂吉が兄を慕い尊敬し続けたことが、兄に送られた手紙やハガキの数々と、兄の死に対し「北海道の 北見の国に いのち果てし 兄をおもへば わすれかねつも」と兄をしのんで詠んだ短歌からもわかります。
富太郎もまた、茂吉直伝の短歌も詠み短歌集アララギに519首を発表し、地域の文化に貢献しました。
昭和25年10月、富太郎が北見の地で没すると、ショックから左側不全麻痺を患い茂吉も後を追うように昭和28年2月、東京大京町の自宅で彼岸の人となりました。
北見市の斎藤茂吉資料は、医術への哲学、医道を歩んだ兄弟の「友愛」「慈愛」を文学的な価値と共に感じられる作品群であると考えています。
市民の生命を守るため医療の充実に努めてきたオホーツクの中核都市にとりましても大切な資料ですが、北海道開拓の拓殖医制度など地域医療史としての価値を、北海道の宝として末永く伝える資料だと考えています。
<北網圏北見文化センター 学芸員 柳谷卓彦>
次回は、北海道開拓記念館の三浦さんの投稿です。お楽しみに!