現在日本で行われる発掘調査のほとんどは、道路や建物などの建設予定地に遺跡がある場合に、工事によって壊されて失われてしまう遺跡の情報を記録保存することを目的としています。つまり、発掘調査が実施された場所の多くには、調査後に新たな道路・建築物がつくられていることになります。土地の景観がガラリと変わってしまうことも多く、遺跡の場所に足を運んだとしても、その土地が歩んできた歴史をうかがい知るのは難しい場合が多々あります。
さて、2025年5月現在、平取町では127の遺跡が確認されています。そのうち24か所が、昭和の終わり頃から平成の中頃にかけて記録保存のため発掘調査され、その成果は沙流川歴史館で展示されています。お客さんに館内を案内していると、展示室に登場する遺跡の名前に注目される方が時々いらっしゃいます。
遺跡の名前はその場所の地名にちなんでつけられることが多いです。特にアイヌ語地名からつけられた遺跡名などは来館する方の関心を引きやすいようです。
今回は平取町内で発掘された遺跡のうち2つを紹介します。遺跡名に焦点を当てながら見ていきましょう。
【1】イルエカシ遺跡
旧石器時代からアイヌ文化期に至るまで幅広い時代の遺物・遺構が見つかった遺跡です。国道の付け替え先にあたる場所にこの遺跡があり、工事に先立って発掘調査が行われました。
「エカシ」はアイヌ語で男性の古老を指します。イルエカシというおじいさんの言い伝え(ウパシクマ)がある場所のため、この遺跡名が付けられました。
~イルエカシの伝承~
出典:萱野茂 1975『おれの二風谷』すずさわ書店 (萱野茂が二風谷の古老から伝え聞いたウパシクマ)
昔、カンカンという場所にアイヌの小さな村がありました。ある日、疱瘡が流行し、多くの村人が次々と亡くなっていきました。ただ一人、イルエカシという老人だけが病にかからず、生き残った人々の世話をしていましたが、ついに彼も病に倒れてしまいます。
自分の死を悟ったイルエカシは、子や孫を呼び寄せ、「疱瘡で死んだ者は、普通の死者とは異なり、先祖のもとへ行けず、病を広める神の仲間になってしまう。しかし、自分が身代わりとなり、家族や村を守る」と告げます。そして、疱瘡が再び流行したときは「イルエカシサンミッポアネナ(イルエカシの血統は私たちだ)」と唱えれば、病を広める神々が避けて通ると教え、息を引き取りました。
その後、この村では二度と疱瘡が流行することはなかったと伝えられています。


【2】旧平取小学校植物園遺跡
縄文時代の土器のほか、旧石器時代の石器などが出土した遺跡です。
この場所には1977年まで平取小学校が所在していました。1916年に小学校校舎裏に花壇が作られたのを契機に、土の中から見慣れない土器や石器が出てくる所として子どもたちや町民に広く知られるようになったといいます。
小学校の移転後、町民からの要望を受け、この場所に老人ホームが建設されることになります。工事によって遺跡が破壊されてしまうことから、遺跡の内容を記録・保存しておくために発掘調査が行われました。


こうして見ると、遺跡名にはその土地の物語が隠れていることがわかります。掘り出された遺跡が実際に人々の営みの場所であった数千年前・数百年前の時代から、近世・近代を経て、現代に再び発掘されるに至るまで、土地利用のされ方は移り変わってきました。こうした土地の変遷を知る手がかりとして、ぜひ遺跡名に着目してみてほしいと思います。
(沙流川歴史館 学芸員 西希)