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木彫り熊の未来のために【コラムリレー07 第7回】

北海道の八雲町は、ある年齢以上の人は誰もが北海道を思い浮かべるお土産、木彫り熊の発祥地です。…ある年齢以上の人は、と書いた通り、木彫り熊は現在のお土産の主流とは言い難い状況にあり、若い人に木彫り熊について尋ねても北海道と繋がらなかったりします。現在、お土産として買って帰るものの代表は、やはり食品。「形が残るもの」は、敬遠される傾向にあるようです。

これが、戦前の昭和10年ごろの観光ブームと、戦後の昭和30~40年頃からはじまる観光ブームでは、木彫り熊がものすごく売れていました。道内だけでなく長野県や、韓国からも輸入して販売していたほどです(現在もベトナムなどから輸入されてますが…)。
特に戦後には新婚旅行などの餞別返しとして50体とかの木彫り熊をごそっと買っていく…現在からはなかなか想像できない光景があったようです。 木工芸のお土産として一番売れたかもしれない木彫り熊ですが、ブームが終わり売れなくなると、職人や工場がどんどん減っていきます。売れた時代に腕を磨いた人が彫り続けますが、大量に売れるわけではないから新たに人を雇って教える等はできず、技術の伝承が順調とは言い難い状況です。

そんな木彫り熊の歴史を、八雲を中心として展示しているのが八雲町木彫り熊資料館です。
八雲ではスイスの木彫り熊を参考に作られるようになり、昭和7年には「北海道観光客の一番喜ぶ土産品は八雲の木彫熊であるが、旭川近文アイヌも(中略)盛んに製作して販路の開拓に努めてゐる」(1932年『アサヒグラフ』19巻23号)と、他の産地を紹介するリード文として使われるくらい、有名になっていました。戦前にたくさん作られ全国各地で売られましたが、戦争で制作者は1人のみに。戦後は制作者が微増し独自の木彫り熊を作りますが、他の地域と比べて生産量は少なく、知る人ぞ知る木彫り熊の制作地になりました。

戦前に作られた八雲の木彫り熊たち
八雲で作られた戦前の木彫り熊たち。毛を彫ったのと、カットした面で熊を表現したもの、そして擬人化しているのが特徴


対照的に、大正15/昭和元年に始まった旭川の木彫り熊(注)は、昭和7~11年頃にはアイヌの木彫り熊として有名になり、各地の観光地で実演販売を行うようになり、戦中には下火になるものの、戦後にはまた多くの人が製作販売し、一大産業となっていきます。そこにはアイヌもいれば、本州からやってきた人=和人もいました。また旭川の作者は戦後に白老や平取などで木彫り熊を教えたこともあって、旭川系統の彫り方が各地でみられます。
全道各地で作られた木彫り熊ですが、規模が縮小してしまったのは最初に書いた通りです。しかし近年、単なるお土産物でなく、アートとかアンティーク、自分の趣味に合うものとして木彫り熊を購入する人が増え始め、新たな制作者も現れ始めています。

この北海道になってから成立し、和人もアイヌも、どちらもが関わって作り上げた木彫り熊という文化を、歴史として展示するだけでなく、いかに現在活躍している人たちに繋げるかを考えています。作ったものを買ってくれる人がいないと続けていけません。多くの人に興味を持ってもらい、ファンとなってもらうために、調査研究して展示するだけでなく、町民向け木彫り熊講座の運営、マスコミ対応、各種原稿執筆、各地での講演、最近では動画を作ってYouTubeで公開と、どんどん活動の範囲が広がっています。
核となるのは、資料に基づいた事実の積み上げですが、それをどう活用して木彫り熊を盛り上げていくか、模索している最中です。

というわけで、最新のお仕事、木彫り熊紹介動画では、どうやったら魅力が伝わるか、わかりやすく伝えられるか、試行錯誤しています。
いろいろな木彫り熊を紹介しているので、下記からYouTubeに飛んでぜひ一度見てみてください。

八雲木彫り熊チャンネル

注:アイヌにおけるサパンペやイクパスイの熊意匠ではない、木を丸彫りした熊=木彫り熊の発祥は、ある程度資料的な裏付けがあるのはこの大正15/昭和元年で、それより前は裏付けがありません。これより前にアイヌ細工の一つとして売られていた形跡も管見の限りありません。もしあったとしてもごく限られたもので、のちの木彫り熊への連続性は確認できません。なおこれは、熊意匠から木彫り熊へのデザイン的な連続性は否定しません。

<八雲町郷土資料館・木彫り熊資料館 学芸員 大谷茂之>