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八雲の『熊大工』の素顔【コラムリレー第1回】

木彫り熊をみると、多くの人が連想するのが北海道のこと。この北海道土産として非常にポピュラーな木彫り熊の歴史は意外と新しく、1922(大正11)年、尾張徳川家19代当主の徳川義親がスイスでペザントアート(=農村美術。農民が余暇を利用して作った木彫等のお土産品)を見かけたことがきっかけです。これらを参考品として買って、義親が所有する徳川農場があった八雲に持ち帰り、農村における農閑期の副業として、また趣味を持った潤いのある生活を営むことを目指して、ペザントアートの制作を奨めました。その参考品の中に木彫り熊があり、これをモデルに北海道第一号の木彫り熊が作られ、1924(大正13)年に八雲で開催された品評会に出品されました。

八雲で木彫り熊が多く作られるようになった1929(昭和4)年以降の販売記録を見ると、函館・室蘭・札幌・旭川・帯広・釧路等の道内各地はもとより、東京・大阪といった道外にも販売されました。第二次世界大戦前は、「北海道観光客の一番喜ぶ土産品は八雲の木彫熊」と、昭和7年発売のアサヒグラフで紹介されるほど有名でした。
しかし戦争の影響で八雲ではほとんどの人が彫るのを辞め、彫り続けたのは茂木多喜治一人のみになってしまいます。戦後の昭和30年ごろには、酪農を継いで木彫り熊制作から遠ざかっていた柴崎重行が再開し、八雲の木彫り熊制作者といえばこの2人の時期になります。

その次の世代といえるのが、上村信光・引間二郎・加藤貞夫の3名です。そのなかでも早くから彫り始めていた加藤貞夫について、奥様からお伺いしたエピソードを交えてご紹介します。

加藤貞夫

自らを『熊大工』と呼んだ加藤貞夫

加藤は、1926(大正15)年に八雲で生まれ、神奈川県の湯河原町で指物師の学校に通います。指物とは、たんすや長持、机などの板を差合わせてつくる木工品のことで、自宅の机等は自分で作っていました。1949(昭和24)年から八雲鉱山にあった中外鉱業に勤務します。1960(昭和35)年ごろから茂木の家に通い、木彫り熊の制作を見て学び、自分でも彫り始めました。彫り始めたころに作られた作品は、茂木の熊によく似ています。

加藤の初期の熊

加藤の初期の熊

しかし、1968(昭和43)年に本州へ転勤となってしまいます。このとき、茂木から「早く帰ってこい」との言葉と共に、1本の彫刻刀を渡されました。
本州では木を探すのにも苦労し、あまり彫っていなかったそうですが、仕事を早期退職した後は八雲に戻り、多くの作品を制作します。札幌等でも販売されました。

加藤の木彫り熊

加藤の木彫り熊

加藤の木彫り熊は、全体的にふっくらとし、どこか優しい顔立ちで、茂木よりももっと繊細な毛立てをするのが特徴です。柴崎のこともすごく尊敬していて、柴崎熊風な作品も作っていました。

柴崎熊風な加藤の熊

柴崎熊風な加藤の熊

這い熊や座熊を多く制作しましたが、一本の木にブドウの葉や実と共に木登りしている木彫り熊も得意としていて、2010年にあった上海万博の日本館で展示されました。

上海万博で展示された木登り熊(左)

上海万博で展示された木登り熊(左)

木が大好きで、彫ることも大好きだった加藤。人から、「木ばっかり彫って楽しいのか?」と問われたところ、「木を彫るのが一番楽しい。お前こそ麻雀やパチンコや酒なんかやって楽しいのか?」と答えたそうです。

また、加藤は足の裏に、「加藤」や「かとう」と彫っています。奥様が名字じゃなくて号を彫らないの?と聞いたところ、「俺は熊大工だから、号はつけない」とおっしゃっていたそうです。実は茂木が亡くなる前に、「北雪の号を継いでくれないか」といわれたそうですが、断っています。寡黙で真面目な方だったそうです。

加藤は2013(平成25)年に亡くなってしまいましたが、彼が作った木彫り熊は各地で愛されています。(敬称略)

<八雲町郷土資料館・木彫り熊資料館 学芸員 大谷茂之>